宇宙食
東京駅丸の内北口の目の前にある丸の内OAZOの中にJAXA(宇宙航空研究開発機構)のショールームがある。
http://www.jaxa.jp/ショールームの一角には、実際に宇宙に持って上がった宇宙食が売られている。
その一つがこれ。
「2010年宇宙の旅」で月に飛んでいったモノリスではない。宇宙YOHKANである。
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東京駅丸の内北口の目の前にある丸の内OAZOの中にJAXA(宇宙航空研究開発機構)のショールームがある。
http://www.jaxa.jp/ショールームの一角には、実際に宇宙に持って上がった宇宙食が売られている。
その一つがこれ。
「2010年宇宙の旅」で月に飛んでいったモノリスではない。宇宙YOHKANである。
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「森と山と日本人 自然と人間の共生」 仙道富士郎編著 (NTT出版)
森は海の恋人 畠山重篤 より
日本で海苔が採れる最大の漁場は有明海です。有明海というのは筑後川という大きな川が流れ込む大汽水域です。日本で100億枚海苔が採れているのですが、そのうちの40億枚が有明海で採れているのです。
100億枚採れている海苔のうち、なんと30億枚はコンビニで売られているおにぎりや海苔巻きに使われているのです。コンビニで一年に売られるおにぎりは、20億個だそうです。おにぎり一個は米にしたらどれくらいでしょう。あのおにぎりはほとんど海苔で包んであります。海苔と米は密接な関係があるのです。海苔巻きもそうです。何年か前に有明海の海苔が不作になりました。そのとき値段が4割上がったのです。コンビニでは海苔の値段が上がってしまったので、安い海苔しか使えなくなりました。安い海苔というのは、汽水域でない外側の塩水の濃い所で採れる海苔が開発されているのですが、そういう所の海苔というのは、色は黒いけれども固くてビニールのような感じで食いちぎれないのです。それでおにぎりを包んだものだから、おにぎりがまずくなってコンビニの売上が落ちました。おにぎりが売れないということは米の消費が減るということです。これは山形のようなお米の産地にとっては大変なことなのです。
それから寿司屋の寿司ネタの多くは、汽水域で採れます。だから汽水域を大事にするということは、米の消費につながっていくことですし、日本の食料戦略上からいっても重要な意味があるのです。やはり日本は米と魚の文明に戻らなければならないということです。
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「森と山と日本人 自然と人間の共生」 仙道富士郎編著 (NTT出版)
森は海の恋人 畠山重篤 より
たとえば寿司屋の看板は東北の場合はだいたい江戸前と書いてあります。関西は箱型に入れる押し寿司ですが、江戸前はにぎりの上にネタをのせたものです。江戸前の語源は、江戸の前、東京湾の目の前の海で、すしの上にのっけるすしのネタが豊富に採れていたからです。いまでも採れているのです。
代表がなんといっても浅草海苔という海藻です。昔は海苔といえば浅草海苔が代名詞でした。東京湾は大量に海苔が採れていたのです。一昔前、海苔はものすごく貴重なものでした。私たちの年代から上の方は、いまみたいに日常的に食べるということはできませんでした。正月とか祝い事のときにしか海苔をご飯のおかずにすることができないくらい貴重品でした。海苔も川が流れ込む汽水域を代表する海藻です。なぜ汽水域かというとこれはまた秘密が一つあります。夏になるとワカメや海苔などの海藻類は消えます。海苔は夏のあ間どこにいたと思いますか。このことをずっと日本の学者は江戸時代以前からある海苔の歴史から血眼になって探していたのですが、いくらやってもわからなかったのです。なんとこれだけ海苔を食べている国の水産の学者がそれを発見できなくて、イギリスの女性の学者ドルーさんに発見されてしまったのです。
イギリスでも海苔は養殖されています。その女性の学者が汗顔を歩いていたら、通常は白い牡蠣の殻の内側が黒っぽくなっているのを見つけたのです、おかしいなと思ってその牡蠣の殻を顕微鏡で覗いてみたら、そこに胞子のようにクモの糸のように広がっているものがあり、それをよく観察してみたら、海苔なのです。つまり、海苔やワカメや昆布の胞子は、春先牡蠣の殻に穴をあけてその中で増えて夏を越すのです。これらの胞子は秋のお彼岸の時期に熟し、牡蠣の殻から飛び出してきてまた海苔が増えます。そういうことがわかったのです。海苔の種というのは、天然でしか付かないですから、その年によって好不況の差がものすごくありました。つまり河口でなぜ海苔の種が採れるかというと、そこにアサリやシジミや牡蠣などの貝がいるからです。だからこの汽水域がきちんとしていないと、海苔の胞子がそこから出てこないということになります。浅草海苔という美味しい海苔がまず東京湾で採れます。
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「森と山と日本人 自然と人間の共生」 仙道富士郎編著 (NTT出版)
森は海の恋人 畠山重篤 より
北上川が流れ込む石巻湾は南に口がひり低手、夏になると南風が河口に向かって吹きます。それで牡蠣の幼生が北上川の河口に集まるのです。川からはえさになるプランクトンを増やすよう分が注いでおりますから、えさが豊富です。ですからそこは、「牡蠣の種」の世界的な産地になっているのです。この種は宮城県で採れますので、宮城種といいます。
イチローが所属する大リーグのマリナーズの本拠地、アメリカのシアトルで養殖している牡蠣もじつは宮城県から行った宮城種なのです。これにも歴史があって、いまから100年ほど前、沖縄出身の宮城新昌さんという方がアメリカに移民として滞在中に、シアトルからタコマという所に船で行こうとしたとき、たまたまアメリカ合衆国大統領のせおどあ・ルーズベルトと乗り合わせるのです。ルーズベルトが当時これからの漁業は捕るだけでなく「シー・ファーム(海の農場)が大切だ」という構想を宮城新昌に言ったというのです。それがきっかけになって、彼はアメリカ・シアトルの牡蠣養殖場のオリンピア・オイスター・ファームというところへ修行に行って牡蠣の勉強をして、日本に帰ってきました。シアトル辺りには大きな牡蠣がなくて、オリンピア・オイスターという小さな牡蠣しかないので、なんとか日本の大きな牡蠣の種をアメリカに持っていって、向こうでそれを育てられないかという研究を約100年前にやるのです。それが実って昭和40年代まで北上川の河口の石巻湾から、ものすごい量の牡蠣の種がアメリカへ輸出されていったのです。当時は1ドル360円の時代ですが、松島から石巻にかけてドルを稼ぐ重要な一次産品だったのです。そういう歴史があるのです。
あるいは秋のパリ、マロニエの木陰のしゃれたレストランに行くと「フリュ・ド・メール」という料理があります。銀の皿の上に牡蠣とか海の幸がたくさん出ます。日本でいえば舟盛のようなものです。メールは海です。フリュはフルーツです。彼らはそれを「海のフルーツ」といっているのです。この料理の主役は牡蠣です。フランスに行って私は牡蠣を食べてきたと胸を張っている人もずいぶん多いのですが、実はパリのこの料理も宮城産の「牡蠣の種」に由来するのです。というのは、昭和40年代にフランスの牡蠣にウィルス性の病気が出て、全滅したのです。それでどうしたらいいかといろいろ考えているうちに、アメリカへ日本の宮城県の牡蠣が行っていたということに目をつけまして、なんとエールフランスの飛行機でこの牡蠣がフランスへ飛ぶわけです。そして牡蠣の種を作っている種牡蠣屋さんたち、アメリカには売れる、フランスにも売れるというので、増産に次ぐ増産をして3年くらい大儲けをしたのです。そうしたら日本の東北地方と同じような水温と気候のブルターニュ地方で、その牡蠣が産卵して向こうで種が自然につくようになってしまったのです。残念ながら種牡蠣は売れなくなってしまいました。
私たちがフランスへ行って同業者に合いますと、俺たちを救ってくれたのは日本の牡蠣だといまでも手を差し出されます。現在フランスでつくっている牡蠣のなんと9割が宮城県から行っている宮城種なのです。
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「森と山と日本人 自然と人間の共生」 仙道富士郎編著 (NTT出版)
森は海の恋人 畠山重篤 より
日本は真ん中に脊梁山脈があって、日本海と太平洋に川が流れ落ちている国です、二級河川までいれると約21000本の川が流れ落ちているわけです。最上川もその一つなのですが、日本の周りの海というのは、全部汽水域というふうに捕らえていいでしょう。もともと汽水と言う概念は昔の八郎潟だとか、現在では島根県の宍道湖だとか、よくシジミが採れるところです。あるいは昔の霞ヶ浦だとか、塩分濃度が薄い水域が汽水という捕らえ方もあるのですが、私は大きく見れば日本の周りは全部汽水域ではないかと思います。そうすると日本という国も俯瞰してみれば、陸上に緑の森があって海にも森があります。汽水に抱かれた国が日本ではないかという観点に立って日本という国を見ていくことができます。
つまりこの国では、典型的な水の自然循環が行われているのです。海から蒸発した水蒸気が雨になり雪になって山野に降り、陸の植物を育て、そこの腐葉土をとおった水がまた川から海に供給されて海の森も育てていきます。この循環の中に山形大学もあります。そうすると川の流域に住んでいる人間が、この海の森林を枯らさないような生き方をしなければいけないわけです。両方そろって一人前といいますか、どっちが嗄れても地球の未来はないということは見えているのです。そこで、人間がどこをどうみてどういう思いで生きていくかという研究が、これからなされなければならないのです。私は漁師のくせに山に木を植え始めて、いまそのことに気がついているのです。
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「崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から」 NHK放送文化研究所(NHK出版)より
意外なものに「地域色」
今の世の中、よほど特別なものでないかぎり、どこに住んでいようと、たいがいの食べものは手に入る次代です。この土地ならではという郷土食や食習慣は、日常生活ではしだいに姿を消しつつあるのでしょう。そんななかでも、くっきりとあらわれた意外な食べ物の「地域色」の話です。
今回の調査では、ある特定の日(2006年3月10日金曜日)の朝食について、さまざまな質問をしています。朝食をとった人のうち、「ごはん」を食べたと答えたのは、54%、「パン」は42%と、「ごはん」派がやや上回っています。(ちなみに、ごはんもパンも両方食べたという人が1%いました)。これを地域別に見ると、ほかの地方で「ごはん」が優勢ななか、近畿地方だけは「パン」の比重が突出しています。
もちろんこれは、特定の一日、それも朝食についてだけの傾向です、しかし、総務省が行っている家計調査でも、近畿地方はパンの購入が金額、数量ともに群を抜いています。また全国の県庁所在地の比較でも、神戸市や京都市など、近畿地方の自治体でパンの購入金額、数量の高さが際立っています。(ただしここでいう「パン」には、サンドイッチやハンバーガーという調理パンは含まれません)。「近畿地方の人たちは『パン』が好き」説は、どうも朝食に限ったことではなさそうです。
近畿でパンがほかの地位よりもよく食べられているのは、いったいなぜでしょう?
一つ推理できることは、この地域がうどんやお好み焼き、たこ焼きに代表されるように、伝統的に「(小麦)粉」に親しんでいる地域であることです。また、老舗のパン屋さんが数多くあるといわれる神戸からパン文化が浸透していったということも考えられるかもしれません。あるいは、すぐに食べられて準備や後片付けが楽なパンのほうが近畿の人たちの気質に合っているとか・・・
それにしても一見地域性があまりないように思われがちなパン食に、kのような地域色があらわれるのは面白いことですね。
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「崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から」 NHK放送文化研究所(NHK出版)より
「地元食材重視」か「外国料理への関心」か
「もったいない」のほかにも、年層別で違いがはっきりあらわれた項目があります。その違いも若年層で低いケースと若年層で高いケースがあります。四つの項目について、年層ごとの割合をみてみます。
「地元の食材をなるべく食べるようにしている」と「ファストフードやインスタント食品はほとんど食べない」は右上がりのグラフになっています。つまり、高年層ほどそう考えている人が多いという傾向です。先ほどふれた「スローフード」の考え方は、高年層のほうが受け入れやすいと言えそうです。
一方、「食べたことのない芸国料理を食べてみたい」と「食事にお金をかけるより、ほかのことにお金を使いたい」は右下がりのグラフで、若い人ほどそう考えている人が多いという傾向があります。「食べたことのない外国料理を食べてみたい」という新しいものへの好奇心は若い人たちの特長といえます。単なるカレーではなく、キーマカレー、グリーンカレー、チャーハン、ラーメンだけでなくナシゴレン、フォー、スパゲッティ、マカロニだけでなくペンネ、フェットチーネ。次々と新しい名前の外国料理がお店のメニューにあらわれて広がっていきます。
このほか「名産品や地域限定の食べものに興味がある」も「外国料理」ほど顕著ではありませんが、女性を中心に若い人でそう考えている人が多いという傾向があります。このデータをみて、各地の観光地のお土産品として、全国的に発売されているスナック菓子類の地域限定版の商品が並んでいるのが思い浮かびました。「地元の食材をなるべく食べるようにしている」が高齢そうで高いのと反対の傾向があるのは、伝統的な名産品だけでなく新しい商品を含め付加価値のある食品に興味があるということのようです。
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「崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から」(NHK放送文化研究所世論調査部編 NHK出版
p19 ごはんかパンか、おかずも食べるか
朝食を「食べた」人を対象に、3月10日(金)の朝食のメニューを選択肢から選んでもらいました。
多い潤に並べると、「ごはん」54%、「野菜・果物」46%、「みそ汁」44%、「パン」42%、「コーヒー、紅茶など」36%・・・・・などとなりました。朝食を食べた人の半数以上の食卓に「ごはん」がのぼっていることがわかります。野菜や果物も半数以上の人が食べていました。
この朝食のメニューでも年齢層によって差が見られました。
日本食の定番「ごはん」「みそ汁」は高年層の食卓にのぼっています。「ごはん」は10代で43%、20代で42%42%に対して、79代以上では72%を占めます。また、「みそ汁」は10代、20代では30%にも満たないのに対し、60代では51%、70代以上では68%を占めています。
また高年層ではおかずもしっかりと食べています。「卵」「豆腐」「野菜、果物」のいずれも60代、70代以上で全体より高くなっています。反対に、20代から40代に多く、60歳以上であまり食べられていないのが「肉、ハム、ソーセージなど」でした。
それでは朝食の栄養バランスはどうでしょうか。主食がごはんかパンであるか、おかずも食べるかどうかで七つに分類し、まとめました。
全体平均で最も多いのは「ごはん・みそ汁・おかず」の37%、以下「パン・おかず」が21%、「パン(おかずなし)」20%、「ごはん・おかず(みそ汁なし)」が8%と続いています。
「ごはん・みそ汁・おかず」の組み合わせは、男女とも高年層が全体平均より高く、男性は53%、女性は51%で、半数が「ごはん・みそ汁・おかず」の朝食をとっています。
一方、若年層では、朝食を食べない割合が全体より高いだけでなく、食べている人でも、パンだけのバランスの悪い朝食をとっている人が3人に1人の割合となっています。
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黄金文化と茶の湯 よくわかる伝統文化の歴史③ 淡交社
初めてのコンテンポラリーアート 茶の湯の陶器
国産のやきもの―陶器が、町衆たちの需要にこたえて新しい生産体制を整えたのは、茶の湯の陶器、喫茶のための器や茶を点てるための道具の分野でした。
また、室町時代から桃山時代前半までは、茶の湯で用いる茶入れや茶碗などの陶器も特別に大切にされ、唐物が中心でした。しかも300年以上前に輸入した骨董品の中から、したがって、すぐれた茶人であるためにの資質の一つに「目利き」と証する茶の湯に適するものを選択する力、選別眼がもとめられました。
なにも先例のないところから、新しい形態や存在感を作り出すことを創造活動とすれば、それは芸術の分野に属します。この最初の活動は、楽焼茶碗の創出から始まりました。
楽焼は、窯業の発展史からみるならば「異端」といっていいほどの特殊な位置を占めます。なぜなら、窯業は土器のように堅くない低火度焼成の製品から磁器のように堅い高火度焼成の製品へ、手づくねによる整わない制作から轆轤や型を用いる端正な制作へ、一品制作から大量生産へ、というように発展するからです。桃山時代後半(16世紀後半)の窯業がまさに近世窯業にふさわしい、高火度焼成と大量生産を可能にした新規な構造の窯を生み出し、制作技術を飛躍させたそのときに、窯業の歩みにすべて逆行するかのように、楽焼が出現しました。楽焼は、手づくねによる一品、それも京の市中に窯を構えた「内窯」と称する小規模生産を旨としました。
この楽焼を作らせたのは、千利休(宗易、1522-91)です。
楽焼茶碗と千利休との関係を伝える記録があります。それは、奈良の豪商塗師屋の父子3代にわたる茶会記「松屋会記」の中の「久政茶会記」です。天正14年(1586)10月13日朝の条に
「一中坊源吾どのへ
三条敷、自在釣物、ツルヘ サツウ 宗易形ノ茶ワン ヲリタメ メンツ 引切(以下略)」
(「茶道古典全集」第9巻)
とあります。
中坊源吾はならの代官です。茶の湯に通じたなら衆を代表する人物で、しばしば茶会を開き、「松屋会記」に記録されています。中坊源吾が開いた茶会に招待された松屋久政がこの日の道具を自分用のメモとして箇条書き風に書きとめたものがこれです。
「(茶室は)三条敷き。(釜は)自在で下げる釣物、(水指は木製桶形の)釣瓶(ツルベ)、(抹茶を入れる茶器は木製漆塗りの)茶桶(サツウ)、宗易形の茶碗、(茶杓は竹製の)折り撓め(オリタメ)、(水翻(コボシ)は木地曲げ物の)面桶(メンツウ)、(蓋置きは青竹の)引切(ヒキキリ)」
と解釈できます。この日の茶会の道具は、国産品のみで構成した茶会であり、国産品の同時代(コンテンポラリー)の製品主体で茶会を開くことは、当時もっとも流行した茶会のあり方でした。唐物を重要視せず、国産品を使い、古い道具ではなく新品を用いる茶会は、現存茶会記から推定すると、天正10年代中ごろから後半にかけて定着しました。「新しい茶道具は奈良から始まった」といってよいほど、堺や大阪、あるいは京とは違った革新性が奈良にはありました。たとえば「瀬戸茶碗」「黒茶碗」(現在の美濃焼き)や「今焼き」(楽焼)といった新規な国産の茶碗は「松屋会記」にしばしば登場します。
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「魯山人陶説」より
料理と器物
中国料理の食器を使っている日本料理
日本料理に使っている上手物の陶器の食器は、多く中国で出来たものである。殊にわが会席料理に尊重する器具の例を挙げるならば、染付けの各種、青磁万体、呉須赤絵、金襴手類などは、残らず中国の食器として生まれたものである。それを3、400年以来、日本料理に適当として調和させている手腕は、慥かに一見識というべきである。以って当時の人々の鑑賞力のほどもわかって来るというもので、所謂古渡り物は、今日なお食器の催行権威として取り扱われている次第である。
ところが本場の中国では、旧い優良な佳器は殆ど地を払って皆無というありさまである。このように本場の空虚になった原因は、日本人に上手物を選抜されたということと、その後は欧米人にも選り取られた結果である。しかし、外国には現下所有物の図録などに徴して日本人の良しとする素晴らしいものはあまり輸出されていないらしい、大体において日本人が掘り出したあとの選り屑といった形であるらしい。
かように本場の中国では、よいものは出尽くしているのに反し、日本では中国の優れた品を今も使っていて、しかも、その使途が動きのとれぬところまで発達しているのは、吾ながら感服の至りである。
良い料理には良い食器が入用で、
良い食器には良い料理が要求される
このようにして、良い料理には食器の選定が大いに、必要を生じてくるものである。たとえば、ここに良い料理があるとしても、それを盛るべき器物が偽者や粗悪品では、料理の価値の引き立たぬことおびただしい。
ここにまた名什の鉢があるとする。、これに不様な不調味な菜肴を容れれば、名器の価値は泣かねばならぬ。要するに料理の美と容器の美は両立して、はじめて最善の馳走ということになる次第である。
しかして味覚を十分に感じ得るものは、是非器物の鑑賞眼が入用であって、そこに始めて料理通完成を称すべきであると思う。
食器の鑑別が充分に行き届いていて、深い心入れになる真実の料理には、真剣みがある。真剣の料理は一種の芸術的生命を有する。かようにして芸術的作品の器物とはじめて調和の美を得るに至るものである。
良い料理には盛り方の美しさ、色彩の清鮮、包丁の冴え、すぐれた容器との調和、それらに対する審美眼がなくてはならない。
また、佳味を賞している席、即ち建築物に就いての審美眼がなくてはならない。
さらに林泉の幽趣、あるいはその境の山水に対する審美眼もなくてはならない。
その中の一つに通ずる素質があれば、必ずその他の鑑賞も出来るようになるものである。
この三つの審美眼を包含し、総合してたっているものは茶道である。即食道楽の極致であり、食道楽の完成である。(昭和5年)
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食の文化(講談社)
肉食文化と米食文化 鯖田豊之 より
主食と副食
日本人の食生活の中で、米を毎年作ってきたということからくる特徴は、「お米さえあれば」、という考え方です。ともかく毎年お米を同じ水田で作っているのですから、そこから米が主食であるという観念が出てくるわけです。
(中略)
この主食という観念が、いかに日本特有の奇妙なものかについて、深田祐介さんがふきだしたくなるようなおもしろい実話を紹介しております。(『日本商人事情』新潮社)。あるメーカーの社員が中近東とアフリカを回ったあと、パリ経由でロンドンへ行くということになったときのことです。だれかが気を利かせて、アフリカまわりのあとではたぶん日本食に飢えているだろうから、・・・とパリの空港で日本食を差し入れしてやってくれとの連絡を知り合いの奥さんにしておいてのですね。ところが飛行機がおくれて、パリの乗り換え時間があまりなかった。ほとんどお礼の言葉もそこそこに、紙袋に入った日本食をそのままもらってロンドンへ飛びたったのです。
問題はロンドンの税関での荷物の検査のときです。本人は紙袋に何が入っているかわからない。「これは何だ」というので、「食べものだ」と。袋をあけると、中から丸いこぶし大の真っ黒なものが転がり出てきた。税官吏はなにやら大声を出してとっさにうしろに下がった。本人もびっくりしてうしろへさがった。つまり爆弾と間違えたわけです。
ところがちっとも爆発しない。それで本人が頭を上げて見たらにぎりめしがカウンターにのっているわけです。のりで巻いてあるにぎりめしが。それで結局爆発しないものですから、「これは何だ」というので、とうとう税官吏の前、たくさんの人の見ている前でおにぎりを食べさせられたということです
深田さんも、「よく考えてみると、おにぎりというのは、なるほど日本人にしかわからない珍妙な食べものだ」といっていますが、私もそれを読んでなるほどと思いました。のりを巻いたおにぎりをはじめて見せ付けられたら、だれも食べものだとは気づかないでしょう。おにぎりこそは主食観念の一つの結晶ではないかと思いますが、主食と副食を区別し、主食をだいじにしてきたのが日本人の食生活です。
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黄金文化と茶の湯
よくわかる伝統文化の歴史③
より
宣教師が見た「茶の湯」と「数寄」
西洋人の茶に関する報告は、早くはイタリアの作家ラムージオによってなされています。枯れの『航海記集成』(1559年出版)には、「明国では、一種の植物の葉を引用している。これはチャと呼ばれ、貴重品である」「中国ではいたるところで茶を飲んでいる。それは空腹の時、この煎じ汁を一、二杯飲むと、熱病・頭痛・腹痛・、あるいは腰痛・痛風など関節の痛みがなおる」と中国における喫茶の習慣と茶の薬用効果が紹介されています。また、1560年に中国を訪れたポルトガルの宣教師ダ・クルスは、「明国では、後期の家に来客があればお茶という一種の飲み物を供する。それは苦味があって、紅色をsており、薬になるという」と報告しています。日本で茶の湯が盛んになり、「数寄」という文化となろうとしていた時期に、中国においても富裕階級で喫茶が盛んになり、薬用としては一般に飲用されていた様子がわかります。
宣教師ロドリゲスの見た日本のお茶に関する報告を聞いてみましょう。
「シナ人および日本人の間では、茶chaを飲む習慣は王国全土にわたって共通で、客人をもてなす第一のものは茶chaである。(中略)日本人は茶に大きな価値を認めた。そして茶を最高度のものと考えるので、客人がたとえ高貴な人であっても、また、天下tenca殿自身であっても、茶で客人に敬意を表し、歓待する。」
この報告が正確であるとしますと、彼が見た範囲においては、茶の湯による接待が身分の上下にかかわらず、あらゆる場面で目撃できたということになります。さらに彼は茶の湯についていろいろと調べたようで、足利義政時代の茶についても報告しています。
「この東山殿の生存中に、そういう家で茶に招待することが、宮廷でも、日本のその他の地方でも、単に貴人だけでなく、さらに庶民で引退して珍しいことを好む人々の間に、特に都と堺の二つの都市において盛んになっていった。」
ロドリゲスのこの記述はあくまで、日本人から得た知識によって書かれていますから、これが事実かどうかはわかりません。しかし、当時の日本人がそのように考えていたことだけは事実です。そして、重要なのは次の一文です。
「茶の招待に適した鄭重さが加わっているのを見たとき、人々は容易にそれに親しみを持ったからであり、主として、それはその中心をなす創始者が、すべての人からたいへんな尊敬と名声を博していた東山殿であったからである。これを当時からその後も、茶の湯といい、そのことを本業とする者を茶の湯者、その家を茶の湯座敷、そして道具や器物を茶の湯道具といった。」
これは「山上宗二記」の冒頭部分で、茶の湯の始まりを義政の時代とする見解とまったく同じです。天正期の人々は、茶の湯の始まりは義政にあると考えていたのです。
そして注目すべきは、茶の湯を本業とする「茶の湯」がすでに存在していたということです。
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魯山人味道 より
仮に私が申してみますれば、料理も刺身なら刺身で、包丁の冴えとか、取り合わせのツマの色、あるいは形、そういうものを大切に注意しますが、それはどういうことかといえば、そうすりことによって料理に美しい感じを与え、全体としてみれば、料理がそれによって美味くなるからにほかなりません。
こういうふうに、料理において尊ぶ美感というものは、絵とか、建築とか、天然の美というものとまったく同じでありまして、美術の美というも、料理上の美というも、その元はひとつで、同じ内容のものであります。
そこで、料理そのものを美化すると同時に、みなさまが毎日注意しておられる、料理を盛る器も、あれこれといろいろに苦心が払われているのです。料理を問題とする人は、勢い食器をも道東に問題とする。これが当然の成り行きであります。
と言うのは、私の見るところでは、今日ひとつとして見るべき食器がうまれていない。それと言うのも、料理業者及び料理人の食器に対する関心が不足しているからで、よい食器が生まれて来ないのであります。料理業者とか料理人こそは料理をやる人であり、従って食器を預かる人ですから、こういう人が食器に対する関心を高めるなら、いやでもよい食器が生まれてくるでしょう。「俺の料理はこういう食器に盛りたい、こんな食器ではせっかくの俺の料理が死んでしまう」と昔の茶料理のようになってこそ、初めて、よい食器が注意され、おのずとよい食器が生まれてくる。食器をつくる人が、mそれに応じて高い美意識から立派な食器をつくらねばならぬようになる。
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文芸春秋1月号
「農水省食料自給率のインチキ」浅川芳裕 より
毎日のように連呼される「自給率40%」は、前者のカロリーベースの数字である。これは一人当たりの国産カロリーを全供給カロリーで割って算出する。計算式で表すと次のようになる。
カロリーベース総合食料自給率
=一人一日当たり国産供給カロリー/一人一日当たり供給カロリー
=[(国産+輸出)供給カロリー÷人口]/[(国産+輸入-輸出)供給カロリー÷人口]
最新の2007年を見ると、分子が1016kcal、分母が2551kcalで、国産が40%となる。
ここで注意すべきは分母となる供給カロリーは、われわれが実際に摂取しているカロリーではないと言う点だ。厚生省の最新調査(2005年)による摂取カロリーは1904kcal。これにたいして流通に出回った食品の供給カロリーは2573kcalもある。その差700kcal弱、つまり4分の1以上がロスされている。急増しているのは、日々処分されるコンビにでの廃棄量やファーストフード、ファミレスでの食べ残しなどだ。
果たして、こうした大量廃棄量まで含んだカロリーベースの食料自給率で、国民が望む「自給」という概念が語れるのだろうか。供給カロリーの分母が大きくなるほど、国産の比率=自給率は過小評価されてしまう。国民が自給率として理解しているのは、健康的に生活するのに必要な食料が身近な国産でどれだけまかなえているかではないか。
しかも現代は、カロリー過剰でメタボ対策が必要とまでいわれる時代だ。そこで厚労省が定める、健康に適正な「食事摂取カロリー」を基準に自給率を計算してみた。ねんれいべう性別の適正基準に対しその人口分布に当てはめてみると、国民一人一日当たりの平均適正カロリーは1805kcalとなり、ここから計算すると自給率は56%にもなるのだ。
政府が定める2015年度の九表の45%を軽々超え、浅生首相の公約の50%さえ一気に突破したことになる。
しかも、人口減少社会で高齢化に拍車がかかっている日本では、20年後の消費カロリー量は2割減少するとの推測もある。
***************
別の資料によれば、食料の廃棄はさまざま合計すると重量にして2000万トンにもなるという話です。
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よくわかる伝統文化の歴史②
「茶道・香道・華道と水墨画」より
寄合の場「会所」の文芸
茶・花・香・連歌は、すべてこのように古い起源をもっています。しかし現在、茶道、華道、香道と呼ばれているものは、室町時代に発祥したと理解されています。つまり、原型は古くにあったとしても、質的な変化とともに発展したのが室町時代なのです。そして、茶の湯、花合(はなあわせ)、香会(こうえ)、連歌会などは、人々が寄り集まっておこなうものでした。その発達とともに、人々の会合を主たる目的とする場所ができます。それがつなわち「会所」です。そしてその会合を「寄合」といいます。
足利義満の花の御所は公家の寝殿造りの伝統を踏まえたものでしたが、応永8年(1401)2月、天皇の行幸のために会所(おそらく泉殿の近く)が建築されました。会所の室内は、唐物(輸入品の総称)で飾られています。このような飾りつけの室礼(しつらい)(設い)と呼び、それには「○阿弥」という名の同朋衆と呼ばれる人たちがあたりました。同朋衆は部屋に飾る掛け物や唐物全般を管理し、義光晩年の頃には掛け物の表装をする工房も管轄していました。いわばインテリアコーディネーターかつデザイナーだったのです。特に能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三代は別格の地位にあり、相阿弥によって座敷飾りの規式書である「君台観左右帳記」が完成されました。
(中略)
そして、武家においてはこの会所がさまざまの文芸、芸能の場となります。そもそも平安時代の寝殿造りは、南側のハレの空間と、北側のケの空間に分かれていました。そして歌会、花合、薫物合などもそのいずれかの空間で行われました。そこへ、室町時代になるとスキ(数奇、数寄。和歌・茶の湯などの風流、風雅の道)の場が現れてきます。義満の会所は南野池に面した泉殿のそばでしたが、これがやがて北側へ移動していき、ハレでもケでもない独立の空間を形成します。標語的にいえば、室町時代には(会所の方向へ向かう)スキのベクトルが北へ回転していったのです。
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「食の文化」
「日本人とたべもの」宮本常一 より
ソバというのは北から南へだんだん広がっていったのではなかったろうか。いままで北というとすぐ暗い、しかも文化が非常に遅れているようにわれわれは考え勝ちですけれども、どうもそんなに暗くじめじめしたものではなくて、農耕はむしろ北のほうに早く発達したのではなかろうか。農耕だけではない、畜産においても同じことがいえるのではなかろうか。
といいますのは、「続日本紀」の元正天皇の霊亀2(716)年の条に渡島および出羽の蝦夷が馬千頭を献上したという記録があります。これはたいへんなことだったと思うのです。その馬をいまの奈良の都までどのようにして運んだのだろうか。陸路を歩ませて運んだのか、船で持ってきて、敦賀で陸揚げしてそこから歩いたのか、いずれにしても千頭という馬が、あの時期に北の北海道から送られてきているということは、それは見逃すことのできないだいじな問題だと思うのです。
その次の平安時代になりまして。関東あるいは中部地方から馬を朝廷に献納します。その献納します馬の数というのはせいぜい20頭くらいずつなのです。小野・立野の牧であるとか、あるいは望月の牧であるとか、そういうところから馬をひいて京都へでてきております。それがいまいいましたように北海道と津軽を含めて千頭の馬がやってきたということは、それ以上の馬が津軽や北海道の原野で駆け巡っていたということが考えられるわけです。しかも馬は本来人の乗るものですが、日本では民衆は馬の口をとってひいています。これはめずらしい習俗ですが、しかもアイヌの間には乗馬の習俗はなく、それが全国に広がったのではないでしょうか。
そういうふうに見て行きますと北海道というのはわれわれが考えているよりははるかに充実した生活があり、本州へも影響を与えていた。つまり貝をとってたbヴぇ足り、あるいは獣をとって食べたり、あるいは魚をとって食べたり、それ以外にすでに農耕が起こっていた。農耕が起こらなければ、北見のようなところに古代の多くの住居のあとが残っているはずはないと、そう考えていいと思うのです。そのようにしてきたから南へずうっと下っている文化があったのだ。そうしてその境になるのが、おそらくは富山県から静岡県へ筋を一本引くファッサマグナの線ではなかったろうかと思います。一方朝鮮半島を経由してソバはまた入ってきたと思われます。
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「食の文化」 (講談社)
「日本人とたべもの」宮本常一 より
食物を増産することを担当したわれわれの先祖というのは、非常に英知に満ち満ちていて、それが自分の住む土地に適することがわかると、進んでそれを取り入れる。そして、秘密でそういう作物を取り入れようとして、つかまって殺されたというような話もありますが、私が調べた限りにおいては、そういう事実はほとんどありません。民衆の社会というのはもう少しおおらかなものであって、お互いが意思の疎通を持っていたという感じを深くするのです。
その一つの例としまして、ソバを取り上げることができると思います。ソバというのは、いったい日本のどこから入ってきたのであろうか。日本が原産地ではありません。私はこのソバにはかなり興味を持っておりまして、旅をしながら方々で話を聞いてみたのですが。一つは朝鮮半島を経由して九州へ入ってきたソバのルートがあるということはわかってきたのですが、どうもそれだけではなさそうです。ソバというのは、むしろ、北のほうから南へ広がっていった形跡があるのです。
そこで最近、北海道へたびたびまいりますので、北海道でいろいろな話を聞かせてもらいましたところ、あそこで、とくにもう縄文時代、いまから4000年くらい前に、北海道ではソバを作っていたんではなかろうかという話を聞きました。じつはそういうような発掘が行われていて、そしてソバがこのようにでているのだという新聞記事になりましたものを見せていただいた。明らかにその写真にはソバが写っています。それは北海道のオホーツク海斜面の遺跡になりますけれども、大体4000年くらい前です。そうしmすと、これは縄文中期になりますが、縄文中期のころにすでに北海道ではソバを作っていた。それ以外のところにもソバの花粉がたくさんでてまいります。
そうすると、そのソバはどこからきたのだろうかといいますと、シベリアから海を越えて樺太、北海道へ渡ってきた。しまのバイカル湖から東にかけての一帯というのは、いまもソバがたくさん作られています。日本でソバの栽培面積のいちばん広いのは北海道です。このようにして、われわれが蝦夷といっている地域、のちには「エゾ」という言葉で呼ぶようになりますが、その地域にはすでに縄文期からソバが作られていたということがわかるわけです。
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食の文化 (講談社)
「日本人とたべもの」宮本常一 より
古くから豊富であった植物性の食物
日本の民衆というものは、戦争から離れたところに存在して、食べるものを作る。そのうえ日本では、植物性の食物が非常に豊富であった。古い時期から豊富であった。
また日本の場合には、その時期時期に食用の作物が入ってきております。そしてそれが人口を増やしていっていることになります。
これをもう少し具体的にいいますと、「古事記」であるとか、あるいは「日本書紀」であるとか、「風土記」であるとか、そういうものにでている食用作物の重要なものをあげてみますと、イネ、ムギ、アワ、キビ、ソバ、ダイズ、アズキ、ヒエ、サトイモ、ウリ、ダイコン、そういうものがでてまいります。
じぢあを一時代引き下げて平安時代の文献に当たってみますと、ササゲであるとか、エンドウであるとか、キュウリ、トウガン、あるいはナスとかいう豆類・ウリ類がでてまいります。それからヤマノイモのようなものもでてきます。おそらくは奈良時代から平安初期にかけて、大陸との交通が盛んになったその時期に、こういうものが日本へ入ってきたのではなかっただろうか。そうしてその栽培が進んでいっております。
トウモロコシの普及の仕方
さらに戦国時代の終わり頃に、スペイン、ポルトガルの宣教師たちが日本へたくさんやってまいります。そのときにいろいろの食用作物が日本へもたらされております。そのいちばん重要なものをあげてみますと、まずサツマイモがあります。それからトウモロコシ、カボチャ、ジャガイモがあり、やや時代が下がりますと、インゲンマメ、ソラマメ、それからサトウキビなどが入ってきております。
こういうようなものが海外との交易が盛んになると、それにつれて海外からもtらされて、そしてすぐ国中全体へ広がっているのです。広がり方が比較的早い。その広がり方も大名がこれを作れといってすすめて広がっていったものもないではありませんが、たとえばトウモロコシが、どのようにして日本へ広がっていったかということはほとんどわかっていません。
トウモロコシというのは、ご承知でしょうけれども南アメリカ原産なのです。そしてそれが南アメリカ大陸が発見されることによってヨーロッパへもたらされまして、そのヨーロッパからさらに日本へも伝わってくることになります。どこへ最初に伝わってきtかは明らかでありません。
しかし、これが日本へ入ってきますと、たいへんな勢いで広がっていくのです。おそらく日本へ入ってきた港の関係からみましても、九州かあるいは四国中国のあたりであっただろうと思われますけれども、この作物はご承知のように茎一本に必ず実が二つなります。これを畑に植えるときには、たいてい二粒ずつ種を落としますから、二本生えます。そうすると一株で四つずつ実がつくということになりまsて、そのうえ栽培も非常に楽なのです。根が深くおりるために、どちらかというとやせた土地のところにそれが多く作られます。
民衆の手から手を通って広がる
私は昭和14年ころから全国各地、とくに山村を多く歩いたのですが、山村を歩いてみまして心を打たれましたことは、たとえば四国地方の、ずうっと脊梁山脈の急斜面、その村々には申し合わせたようにトウモロコシが作られていました。あるいは九州へまいりますと、九州の大分県からずうっと宮崎県、熊本県にかけて、南のほうの五木であるとか五家荘であるとか、それより南は少なくなりますが、それより北側の阿蘇に沿って、それから高千穂へかけてずうっと豊後水道までの山間にこのトウモロコシがいたるところに植わっているのです。
さらにそのルートはずうっと四国山脈、紀伊山脈の中、ちょうど古生層という地層がありますが、その古生層地帯を東へ抜けて伊勢まででて、そこから海へ入って今度は三河山中へ入っていきますと、ずうっと長野県のあたりまで分布をみている。されにそれが関東へ広がってきておりまして、関東西部の山の手にいたるところにこのトウモロコシの栽培がみられるのです。
それがどのように広がっていってのだろうかということを見ますと、たとえば九州の阿蘇地方でこのトウモロコシの栽培が起こっていったのは、阿蘇の山麓の一人の女性が近畿を旅して、四国八十八箇所を回って、そして四国の山中でトウモロコシを栽培しているのを見て、郷里へもって帰って植えたのが広がったのだというような話があります。それが元禄と申しますからかれこれ300年前の話で、まったく無名の一人の女がそういう種を郷里へ持って帰ったことから、ずっと九州の阿蘇の山地へ広がっていったと言い伝えられております。
サツマイモの場合は、殿様が関係をしたり、あるいは井戸平佐衛門のような優れた代官がそれに関係しておりまして、わりあいその伝播のあとをたどることができるのですが、このサツマイモに劣らないほど、われわれの生命を大きく支えたトウモロコシが全国に広がっていった歴史が、ほとんどわからないということは、じつは民衆の手から手を通って広がっていったのだと、そうみてさしつかえないと思います。そのトウモロコシの植わっている地帯には、もとはヒエが作られていたのですが、ヒエを作るよりもトウモロコシを作ったほうがはるかに収穫が多く、効率が上がる。作りやすいというわけで、知らぬ間にその大きな交替がみられたのです。、そうして、これが山間に人を多く住まわせる大きな力になっていたとみていいように思います。
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日本美術事件簿
千利休 秀吉に翻弄された大茶人の自死
より
南北朝から室町初期にかけての時期は、日本の文化の発展における画期的な一段階である。従来の公家層の勢力は依然として保たれていたとはいえ、一国の中心である京都には、続々と全国から武家の長である大名たちが集住する状態となって、異質な文化が加わる。
足利幕府が尊氏から次代へと徐々に移り変わるにつれて、住宅の様式にも変化が現れ、それまでの開け広げの寝殿造の空間に間仕切りがされ、部屋に畳が敷かれ、床の間がついて書院が設けられ、それにともない建物全体の構造が別のものとなる。そればかりでなく、本殿とは別に、庭園に面して建てられるさまざまな建物の一つとして、会所というものが現れる。つまり、それは遊興の場だった。武士たちは勤務の余暇に寄り合っては、三々五々、連歌会や茶寄り合いを楽しむようになり、しだいに月次の催しとなるに至って、それを取り仕切る新しい職業として「連衆」が出現する。
この会所が将軍義政の東山山荘において全面的な書院となり、正殿である寝殿に取って代わるようになって、建築革命が完成する。それに伴い、床の間を中心とした座敷飾りの方式が考案され、茶の湯が発展する。それに奉仕するものとしての同朋衆とそれに準じるものが重要性を増すのはそれからであり、戦乱の時期に武将に同道して負傷者の手当てをし、死者の処理をした時宗の僧の形態を継承して阿弥号を与えられ、諸々の行事を取り仕切るにとどまらず、将軍の側近として多くの事柄に携わる立場になる。毎阿弥、能阿弥、芸阿弥、相阿弥の四代がもっとも代表的で猿楽の観阿弥、世阿弥、音阿弥もよく知られている。
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「本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー」養老孟司 竹村公太郎より
特別鼎談(養老孟司 竹村公太郎 神門善久)
日本の農業、本当の問題
神門:日本の農業を語るさいにまず問題にすべき数字があります。「農業センサス」のデータによると日本には285万戸の農家があることになっていますが、圧倒的多数は、農業所得にはあまり関心のない兼業ないし高齢農家です。「農家らしい農家」といいますか、農業所得を重視している農家はおそらく30万戸強程度です。
285万戸の農家のほかに、「土地持ち非農家」といって、非農家でありながら農地を所有している世帯が120万戸あります。土地持ち非農家にもいろいろあります。高齢で農業をやめて農地を小作に出すか耕作放棄しているケースもあります。最近増えているのは、元農家の子弟で、相続で親の農地を引き継いだケースです。いずれにせよ土地持ち非農家は年金なり雇用賃金なり、農外の収入で生計を立てていますから、農業自体には関心をもっていません。資産として農地をもっていると言っていいでしょう。
昔は「専業農家」という用語がよく使われましたが、専業農家の場合は、「高齢専業」が多いので、最近は農水省も「主業農家」という概念をよく使います。農家所得の過半が農業で、65歳未満、農業従事60日以上の者がいる農家のことで、42万戸あります。ただ、この中には高齢であったり、農業所得が少なかったりして「農家らしい農家」とは言いがたい農家も相当数含まれています。たとえば、上限年齢を65歳から60歳へおt5歳引き下げるだけで38万戸に減ります。また、鉢花のように工芸品に近いものを主たる収入にしている農家もあります。ですから、「農家らしい農家」の数は、甘めに見て38万、厳しめに見ると30万戸でしょう。ところが「農業センサス」では、0.1ヘクタールというごく小面積を基準にして、それ以上の営農をしていれば農家とみなしていますから、「農家らしからぬ農家」が農家戸数の圧倒的多数になります。ちなみに、0.1ヘクター以上の農地を持っていれば、農業委員会の選挙権、被選挙権があります。農業委員会というのは、市町村ごとに設置された行政組織で、農業政策、とりわけ農地関係の政策で、実質的に大きな役割が課せられています。
厳密にいえば、「農業センサス」の285万戸の中には、「例外規定農家」といって、農地面積は0.1ヘクタールにに満たなくても、農産物を15万円以上販売している農家も含まれています。小さな都市農地で貝割れ大根だとかプチトマトを作っている農家がその例ですが、戸数は少ないです。
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食の文化
「味覚と文化」より
あぶらの文化は、もう一つは酸味の文化でもあると思います。あぶらはしつこいから口の中がさっぱりしません。あぶらもののときには酸味があると、口の中がさっぱりするとよくいわれますが、これは非常によくあたっています。ですから、あぶらが普及すると、日本の場合は、トマトの使用量がふえてきます。トマトがどうしてこんなに使われるようになったか。それはあぶらが使われることと並行して、それが増えてきているのです。
また、あぶらが増えてきますと、ワインが増えてきます。ワインは強い酸を持っています。どういうワインがおいしいかというワインの味覚テストをしてみると、あぶらものをわりと多く食べる、そして食生活が洋風化しているような人は、ドライなワインのほうがおいしいと言いますし、まだ和風の生活がかなり残っている人は、スウィートなワインでないと、これはちょっとからすぎると言います。
その点では、あぶらと酸味というものは、はっきりとしたつながりをもつのではないでしょうか。ところで、あぶらの時代になってくるとワインが入ってくるということですが、ワインはブドウのg芸術だといいましたけれども、ワインが入ってくれば、ブドウそのものの芸術が入ってきますし、さらに加えて、ワインそのものに付随するいろいろなものも入ってくるのではないかということです。
たとえば、ワインには道具が伴います。ワインのような光の屈折率をもった液体は、それをグラスに入れたとき、グラスの中でワインがどういうふうに輝くかということで、味が違って感じるわけです。これはとくに白ワインをグラスに入れてみるとよくわかりますが、白のワインでも赤のワインでも、グラスのガラスの質でワインの輝き方がまったく違って見えます。質の悪いガラスのグラスにワインを入れるとあまりおいしそうにはみえない。ところが、ガラスの質のいい光の屈折率のt回グラスに入れるとワインの色がきれいにさえて見えます。トロッとした感じのおいしそうなワインに見えるのです。
よりおいしくワインを飲んでやろうということになりますと、そこにグラスというものの価値が出てくる。そして、グラスの芸術が発展していくというわけです。ヨーロッパのガラス危惧の発達を促したのは、ワインがおいしく見えるための研究によるものではないかと私は思います。
日本では貯蔵したワインが売れれていますが、ヨーロッパですと若いワインで、ことしはブドウがよくとれておいしかったからことしのワインを買いましょうということになります。日本の家屋では、そのまま貯蔵しておくと温度の上がり下がりがひどいので、ワインがまずくなります。
ところが、フランスなどでは、家庭にみな半地下倉庫を持っておりまして、そこにワインを並べております。年の若いおいしいワインを買ってきて、そこに詰め込んでおく。そうしますと、三年くらいすると熟成されてきて、おいしくなってくる。そうなりますと、ワインをおいしく飲もうと思ったら、家の構造まで変えなくてはならないということで、生活というのは、家の構造をずいぶん変えるものだと私は思います。
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「食の文化」
「味覚と文化」河野友美より
私がだいぶ前にアメリカへ行ったとき、ずっとアメリカ人の間だけ歩いていまして、ふっと二世の人にシカゴで会いました。そうしたら、その人と話していると、ものすごく味噌汁くさいのです。やはり食べているもののにおいは、体からしみ出てくるようです。とくにみそのにおいは、丸大豆を使ったものほど特有のにおいが出てまいります。これは、やはり脂肪が分解したにおいだろうと思います。
反対に、いまのようにでんぷんが主力で、あまり大豆も使っていないような、みそからいうとインチキなのですけれども、いのいとしてはみそくさくないみそは、あまりからだからみそのにおいはしませんし、逆にいえば、そういうみそのほうが好かれているようです。そのように、食べたものの中に脂肪のにおいはずいぶんはっきり体臭としてにおってまいります。
ウナギのように下等な動物になると、もっとそれがはっきりしていて、ウナギをイワシで養殖したのか、ホッケで養殖したのか、あるいはサンマを食べさせたのかということが、ウナギを白焼きにしたとき、そのにおいが、それぞれ違ってきます。イワシをたくさん与えたのは非常にイワシくさいです。
ですから、体の中に動物性のものを取り入れますと、そのにおいが出てくるというように、あぶらの文化は体のにおいさえ変えてしまいます。当然その人が家屋の中で生活をしているときにそこにやはり臭いを消すような香水がなくてはいけない、あるいは香りがないといけないということがいえると思います。
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「食の文化」
「味覚と文化」河野友美より
いま私たちが食べている小麦粉は歴史始まって以来最悪の小麦粉です。
どういうことかといいますと、麦が変わったわけではなくて、製粉の方法が変わってしまって、高速度で製粉いたします。そのため四十度くらいにいったん熱をもってしまった小麦粉なのです。こういう小麦粉のでんぷんの粒子は壊れていて、水をたくさん吸い込みます。だから、生地をかたくこねるということができなくて、非常にだれた生地しかできません。
そういう形態になってきますと、これには砂糖やあぶらをたくさん入れたほうがかえっておいしいパンが出来上がるのです。いまは、よほどよく探さないと、フランスパンのおいしいのに出くわしません。なぜかというと、いまのような小麦粉の変化によって、高速度、能率のいい大製粉会社でできた粉でつくった場合には、パリッとしたフランスパンのいいのができなかrです。
中小製粉工場の能率の悪い粉ひきでひいた粉のほうが、いいフランスパンができる。だから、能率的な小麦粉を使った場合には、パンはペイストリーのような甘みや脂肪をたくさん含んだもののほうが好まれる。そういうものになれてきますと、あぶらと果物のたくさん入った、パンだかケーキだかわからないようなもののほうが好まれるということです。
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現代食文化考現学―食から時代のトレンドを読む―(1989年刊) 加藤純一 より
いま、戦前の料理家として知られる北大路魯山人の人気が復活している。比較的多いエッセイなどの中で魯山人は、“美味”つまりガストロノームについて多面的に話しかけているが、「美味の根本は材料にある」として中国の随園を引用、材料六包丁四の比重をおいている。このウェイトのおきかたは多くのレストランの一流シェフもほぼ同様のようであるが、これを先述したグルメ・ブームの昨今の食品やメニュー開発の中に挿入してみると結局、「味四、包丁二、イメージ四」という構造になってしまう。
これでは、結論的に言えば味の比重は相対的に低下、“B級グルメ”と呼ばれる世界以下のものである。B級グルメは五大丼三大ライス(天丼、カツどん、うな丼、牛丼、親子丼、カレーライス、オムライス、ハヤシライス)といったメニュー・レベルを前面に押し出したかたちで、先行していたグルメ・ブームに一矢を放った格好で登場した。この五大丼三代ライスは、大正デモクラシー時代から昭和初期のモボモガ時代の「旧きよき時代」のごちそうメニューであったが、B級グルメは決してそうしたレトロかという面だけではない。
魯山人時代、もちろんB級グルメというような表現はなかったが、彼の指摘する東京の自慢料理(すし、天ぷら、豚カツ、牛鍋、そば、うなぎ、おでん)は大衆性において昨今のB級グルメに通じるものがあり、その特性として次のような点を指摘している。例えば酒に適さず、惣菜料理ないし家庭料理的である、下手(げて)、美食、手っ取り早く、くどい味・脂っこい味・・・・といった点である。魯山人は惣菜料理のポイントを「手のかかる工夫を一切排除して、なるべく安易に入手できる安価あ食品材料を選び、口に充分な喜びを与え栄養もある」ことにおいているが、これは、まさにB級グルメの世界であり、一般の食堂、レストランのシェフ・板前の信条でのある。見方をかえると多くの家庭ですでに失われつつあるものがB級グルメとしていま外食市場に復権したのである。本来の“グルメ”世界は、そうしたB級グルメが日常の食生活にしっかり根をはっている中で、原料を美化し、眼を楽しませ、五感を満たし和ませて味わう人たちをガストロノームへと高めるという“深耕”型世界にある。
このように考えると、昨今のグルメ・ブームの実体は「食べる場」を中心に皮膚感覚をくすぐる情報的グルメであり、料理のブランド化にほかならない。このブランド化が限りなく食のファッション化とか、エンターテインメント化といった価値領域と融合(フュージョン)している。すしバーと新しいすしは、話題性という情緒的おいしさが人気を呼んだし、業態変化もメニュー開発も話題性をねらったフュージョン現象ばかりであるといってよいほどであり、食べモノとしてよりも、むしろ食べ方(スタイル)の方向へといまもエスカレートしている。
その結果、“彩色”というキーワードやコンセプトが生まれるように料理の世界はカラフル化とデザイン化への傾斜、これに伴ってバラエティに富んだ食べものを少しずつ食べる“選食”によって、むしろグルメとは対極にある“虚食”の世界へと変質しているのが現状である。
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「食の文化」
「食の社会学」加藤秀俊より
ハンバーガーというきわめて大衆庶民的なものを例に挙げましたけれども、日本の例で一つだけ挙げておきますと、私がやはり感動をとどめることを知らないのはアンパンです。これはすばらしい発明品です。つまり一方にはまんじゅうの伝統があった。それから西洋から製パン技術が入ってきた。日本の製パン技術は非常に優秀でして、これは十六世紀ころのポルトガル人のノートの中にも、日本のパンは非常においしいと書いてあります。
まんじゅうもまたそもそもの起源からいいますと、羊をいけにえにしたことの名残なのです。諸葛孔明などもそれをやっておりますが、川の水が非常に増水しているとか、天気が荒れている、そういう水の神様を慰めるために羊を犠牲にして、その頭を水の神様に捧げた。ところが、あまり羊を殺してはかわいそうだという人道主義が働いたのか、それとも羊が高かったのか、いなかったのか知りませんけれども、あるときふと知恵者がいて、同じようなものをつくれば神様は満足してくれるに違いないというので、内側に肉を詰めて表側に皮をつけたマントーをつくった。ですから、中国のまんじゅうは肉まんじゅうでしょう。内側にあるのは羊の脳髄で、外にあるのは羊の頭の皮膚を象徴しているのです。これがマントーの起源であります。ですから、中国では肉入りというのがマントーというものです。そのマントーが日本にきて、禅宗の坊さんたちは肉を食べませんから、そのかわりにあんこを入れました。
そういうまんじゅうの伝統が一方に連なっているのです。そこに西洋から今度は製パン技術が入ってくる。パンとまんじゅうをどうやったらつなげることができるかという工夫が凝らされ、その結果できあがったのがアンパンというものです。
つまり食べものというのは、文化と文化が交わるための大きな原動力にもなったし、また文化と文化が交じり合う過程で、アンパンだのハンバーガーのように、それぞれの文化にあったような仕方で修正され、作り直されていくものだということです。
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「食の文化」
「食の社会学」加藤秀俊より
ハンブルグで始まったハンバーガー
人間の知恵というのはまことにりっぱなもんでありまして、よその国からある種の食品を手に入れても、それを変えていく能力をもっております。食品による世界の文化交流史は一冊の本にまとめることができるほど、興味の尽きない話題でありまして、いくつかの例の中から申し上げますと、たとえば私が非常に卓抜だと思うのはハンバーガーであります。ハンバーガーの起源については、研究書は非常に少ないのですけれども、その起源はこういうことになっております。
ご存知のように十三世紀にモンゴル帝国が非常な拡大を示して、一方で東のほうには日本のすぐそばの朝鮮半島の突端まで来まして、元寇の役が始まるわけです、そこまでジンギスカンの軍隊が出てくる。西のほうはドナウ川までまいります。そこで、中央アジア、蒙古に根拠を置くモンゴル帝国では、肉食が主でありまして、羊や牛の肉を生で食べる食べ方を持っていた、今日でも、好きな方はタルタルステーキというのを召し上がります。タルタルステーキというのは、生のひき肉にたまねぎを混ぜて、それに卵を落としただけのもので、いっさい加工はいたしません。
タルタルというのはタタール人ということです。これは日本語ですと韃靼人になるわけです。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の中に「韃靼人の踊り」とのがあります。あの韃靼です。タルタルというのはそういうことです。タルタルステーキ、タルタルソースというのは韃靼人、つまり蒙古から来た人たちが持ってきたのです。
ところが、そのころバルチック海で商業を営んでいたドイツの船乗りたちが、たまたまタタール人と会いまして、そこで生の肉をこまかく刻んで―ひき肉の機械は当時ありませんからきっと切り刻んだのでしょう―食べる習慣を持って帰ってきた。その母港がハンブルグであります。ハンブルグに持ってきて、船乗りは、海外新知識をさっそく応用して牛肉をチョンチョンと刻んで食べる。しかし、普通の市民は生の肉を食べる気がしなかったので、ひき肉を固めて焼くという方法をつくった。それがハンバーガーステーキという言葉の起こりであります。
要するにハンブルグで始まったからハンバーガーステーキです。私は、たいへん好奇心があったので、ハンブルグに行った時に、ここではなんと呼ぶかと聞いたら、ドイッチェステーキと呼ぶのだと教えられましたけれども、これは明らかbにハンブルグというと指名と密着しているのです。
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「食の文化」 (講談社)
「食の社会学」加藤秀俊より
しかし、そうした神様からちょと離れて、もう少し現世的なところで、共同体意識をつくるための食事というものを考えてみますと、中世の日本の村落で行われていた「茶寄り合い」というのがありました。日本史の先生に昔、私はうかがったことがあるのですけれども、中性には方々で百姓一揆が起こるわけで、お百姓さんが集まっていると、これは過激派だということで、集会してはならんということになるわけですが、みんなで寄り合ってお茶を一杯酌み交わすというのは社交の問題ですから許されたのです。
そこで、茶寄り合いを催しまして、茶飲み話をするというたてまえにしておきながら、実際には村のこれからをどうしようかとかなんとかいった、わりあいまじめな議論をした。この茶寄り合いがやがて茶道に展開していくわけです。これが大体十五世紀の末から十六世紀のはじめにかけてです。そして、今日の裏千家、表千家といったような茶道に展開していく。しかしその原型は茶寄り合いになったのです。
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「魯山人味道」より
ほんとうに美味しいのりの佃煮が食べたい人は、売り物にろくなものはないから、自前でつくるよりほか仕方がない。
自分で拵えるのは、生のりの採れる時分に、生のりを生醤油でごとごと、とろ火で煮つめることだ。生のりの手に入らぬ土地の人は、もりものの干しのりなどを醤油で煮つめればよい。煮詰まらなくて、醤油がだぶだぶしているような煮方はまずい。そのねちねちと煮えたやつを、暑いご飯の上にのせて、煎茶をかける。それに少量のわさびを入れる。それだけでいいので、のりの茶漬けほど簡単なものはない。酒の後などで食べるには、至極適した茶漬けと推量できる。
この茶漬けをぜいたくに食べようと思う場合は、なるべくいいのりを惜しげもなく使うべきである。のりがよければよいだけの美味さがあるから、味をやかましく言う者は、できるだけ上等ののりを煮るがいい。
こういうのりの茶漬けは誰しもやっていることだが、これから私が話そうとするのは、もっと手軽なのりの茶漬けである。
それは、いいのりをうまく焼いたものか、焼きのりのうんと上等のを、熱いご飯の上に揉みかけ、その上に醤油をたらし、適当にわさびを入れて、茶を注げばよろしい。熱いご飯をのりで巻いて食べる人はたくさんいるが、焼いたのりを茶漬けにする人はあまり見受けぬ。
一椀についてのりの分量は、せいぜい一枚か一枚半を使う。これは朝によく、酒の後によく、くどいものを食った後には、ことさらにいい。多忙の時の美食としても効果がある。
こんな茶漬けをよろこぶ者は、通人中の通人に属するだろう。茶の代わりに、かつおぶしと昆布のだしをかけて食べるのもよい。これらは副菜の漬物を一切要しない。ぜいたくな泊まり客でもあった際には、朝食に出すことである。もちろん、上等の煎茶を使用するにしくはない。
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「食の文化」(講談社)
「食事と文化」多田道太郎より
私たちは、ものを食べているのではなく、文化を食べている。あるいは情報を食べている。日本人の食事は、かつてはなにか神秘的なものでした。神様仏様にありがとうございます、おさがりをいただく、という感じでした。それがやがて神様の薄れてきた現代社会というものになってきますと、「力」がひとつの神話になりました。エネルギーがつく、もりもり元気で働く、こういうものが昭和30年から40年にかけてはまだ象徴でありえたわけですね。
ところが石油ショックのころから私たちの象徴は、「健康」に変わってきたのです。しかし、健康というものがこれまたあいまいな概念でありまして、やがて次に移っていくでしょう。
私はお米についてこう思うのです。「健康」よりも「美」よりも、もっと感覚的な何か、そういうものが将来はイメージ化されて米の周辺に立ちのぼるのではないか。
農民がたいへんだから米を食べようとか、そういう発想ではないのです。ただ日本人の美意識というものが、伝統的に米と深く結びついていたこともまた事実であります。米作が徹底的に落ちてしまった場合、日本文化が徹底的打撃を受けるということはまずまちがいがありません。
この文章は昭和55年発行の本から取ったもの。今現在の米のイメージはなんだろうか。
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「食の文化」(講談社)
「食事と文化」多田道太郎より
米のありがたみをわかっていないのではないか。
日本料理はへんな料理といったら語弊がありますが、世界の中で特殊な料理です。
そのいちばんの基本はお米であります。一般に、食文化の保守性ということを申します。これは本当に不思議なもので、いろいろな文化の中で、もっとも保守的なものは食です。世界中そうなのです。
個人差がありますけれども、大体35歳が一つの区切りでありまして、中年になって、成熟すると日本料理が美味しくなってきます。いわゆる西洋料理というものよりも日本料理へ写ってくる年齢というものが35歳。あるいは40歳、このころに一種の転向現象が起こってまいります。
西洋では転向というものは宗教をめぐって起こりますけれども、日本の転向は食事をめぐって起こることが多いのです。感覚的なものが、日本人の生活の中で非常にだいじなのですね。無意識のうちに、私たちの価値観をすべて変えていく、そういう面があります。外国へ行って外国の料理が食べられない、肉が食べられないという人がとても多いのです。米を持っていくという人があります。ひどいのになると水までかかえていくなんていう人もあります。
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「食の文化」(講談社)
「食事と文化」多田道太郎より
箸はいちど使うと自分の魂が乗り移る
日本の食事は器を楽しみ、そしてサービスする人のしぐさを楽しむものでしょう。しぐさはじつに優美ですね。お酌するときの雰囲気は、とても言葉では言い表せない言葉の敗北です。
箸というのは、たとえば昔の習慣で、旅をして峠に行きます。峠で弁当を使うことが多いですね。そのときに箸を地面に刺しておくという風習があるのです。それは神に供えるわけです。どうして神に供えるのだろうか。神に供えるのでしたらもっとだいじな、餅を供えるとか、あるいは弁当を供えるとかすればいいのに、古い箸を供える。どうしてでしょうか。
箸はいったん自分が使うと魂が乗り移るのです。もっとも、その前に材料としての柳箸、柳というのは神の媒体としての意味もありましたけれども、とにかく箸というのはいったん使いますと紙のよりしろとしての箸という意味が出てくるのです。橋をそこの場に置いたままにしてはいけないのです。むやみに捨ててはいけない。神様がそれを許したもう場合だけそこに刺してもいいのですね。ですからそうでない場合には、割り箸なんかの場合には、折っておくことです。それは魂をそこに残さないためなのです。割り箸というものが発明され、完成したのは1820-30年、文化文政のころであります。
大衆消費社会というものができたころに、この割り箸というのができたことに注目しなければなりません。日本は有数の外食文化をいま持っているといいますけれども、そういうもののはしりは、文化文政のころにできて、江戸の庶民がいちいち箸をもって歩くわけにいかなくなった。そこで割り箸というものを作る。割り箸は食べるのに便利でありましたけれども、魂が割り箸に残っては困るわけですね。そのためにこうして折るという習慣ができあがりました。いまでも箸紙を折る人があります。それはこの箸の魂をそこに残さないためという古風を伝えている日本人のしぐさであります。
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「魯山人味道」」(北大路魯山人 平野雅章編)より
いよいよ料理を作る段取りになりました際において、是が非での心得ておかなければならぬことは、材料の吟味であります。美味しい料理も、立派な料理も、要は材料が根本でありますから、料理のよしあしは材料しだいというモットーを堅持しまして、さかなを択ぶにも、蔬菜類を手に入れますにも、充分な関心を持ちたいものです。いずれも新鮮でなくては、いけないことは申すまでもありませんし、しかもその上に質のよい、いわば性の善いものでなくてはいけないのであります。この善良な材料さえ手に入れますれば、まあどうせんでも、すでに美味しい料理は出来ていると言いましても過言ではありません。
さてその次に考えられますことは、ものの加減ということであります。この加減一つが技術上の命の綱でありまして、料理人の腕なのです。
煮加減、焼き加減、塩加減、水加減、火加減と加減の大事が次々とかぎりなくあります。料理を殺すも生かすも、技術としまして、実に、この加減ひとつにあうのであります。しkし、これをうまくするためには、一朝一夕によくするところではありませんから、数多く実地について経験するより法はないのであります。たびたびの経験こそ、加減の先生であると言ってよいかと思います。
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「魯山人味道」(北大路魯山人 平野雅章編)より
「料理する心」
料理にも料理の要訣と申しますか、奥義と申しますか、そういってもいいものがあると思うのであります。ところでそれとて特別なものがあるのではありません。ほかのなにごととも共通するものであります。およそ物を成功させようという要諦は、いずれにしましても、道は一つであるといえるようです。
その第一は人間の真心です。これなども口で言っている分にはなんでもないことのようでありますが、実際にはなにを措いても、この真心というものがなくてはなりません。料理の上にも一番大切な条件となります。
次は聡明の必要であります。まあこれも言いますれば、変な言い方かも知れませんが、賢くなくてはいけないということであります。頭が悪いとあっては、どうしようもありません。
その次は熱意と努力でありましょう。よい料理が生まれますまでには、人の知らない苦心と努力がつきものとなっております。しかも、行動が敏活で、時間に間に合う動きがなくては、せっかくの努力も残念なことに了わらないともかぎりません。苦心のご馳走は、ようやく出来たが、客さんはもう帰られたというようではいけません。まあこれらは、料理常識としまして、ぜひとも身につけていたいものであります。しかし、これも好きでするのですと、頭も働き、からだもおのずと動き、よい知恵も出mして、自然と料理に必要な条件も具わるものであります。
それでぜいたくを言いますと、元々好きでするのでなくては、料理というもの所詮うまくいかないものであるともいえます。
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