逆向きの文化創造
呉善花(O SonFa)
日本オリジナルの旅(日本教文社)
握り寿司職人は粋が勝負
日本文化ほど素材へのこだわりを強くみせる文化はない、それは食文化でも同じこと。日本料理ほど、見た目から味、歯ざわり、舌触りまで、素材そのものを押したて、引き立てる料理はほかにない。そのため、どんな素材もおよそ唐辛子などで味付ける韓国料理文化で育った私は、最初のころは味が薄くてとても食がすすまなかった。フランス料理や中華料理にはしっかり味が感じられるが、和食には味の手ごたえがなくてまるで食べた気がしない。それに、カニなどわずかにゆでただけで、そのままちょこっと酢醤油につけて食べるなど、なんて貧相な食べ方なのか、なぜもっとおいしい味付けをしないのかと、ずっと疑問に思っていた。なかでも、最も首をかしげたのがにぎり寿司だった。ご飯の上に生魚の切り身を乗せて、なんでそれが料理なのか、しかも鼻にツーンとくるあのワサビの感じ、あれが嫌でたまらなかった。韓国では一般に、魚の刺身はあまり食べないが、私の故郷の済州島ではよく食べるからこれはいい、けれども、刺身なら唐辛子みそをつけるのが韓国式、醤油ではこれまた食べた気がしなかった。
韓国の「なんでも唐辛子味付け料理」は例としては極端かもしれない、しかし、やはり素材を人の手によってどれだけ加工し、見た目も味も、歯ざわりも舌触りも素材のあり方とは別な独自の質をどう作り出していくかという方向性が、諸外国の料理では目指されているように思う。
それでは日本の素材主義ではいったいどうんな方向性が目指されているのだろうか、それを私は、素材の自然なあり方の質を壊すことなく、それをどのように保存し、どのように生かすかということへの強烈な嗜好性だと感じてきた。、にぎり寿司はその最たるものといってもいいだろう。
○逆向きの文化構造
にぎり寿司に典型的なのは、日本特有の逆向きの文化創造というべきものである。つまり、自然を加工してどんどん人工化の度合いを高めていくのが一般的に文化の高度化だとすれば、その逆に文化の起源へ向かおうとする方向で文化を高度化させていくのである。
たとえば刺身とか白木のままの建物などは、そもそもは技術が未発達で、さまざまな自然条件に縛られての生活を余儀なくされていた時代に由来するものだ。技術の発達とともに文化の周縁部に遠ざけられていくのが普通である。ところが日本では、そうした文化の起源にあったものが、高度な洗練を受けつつ文化の中心部で発達し続けたり、ある時代に工夫や考案が加えられて新たな文化として再生されたりすることがしばしば見られるのである。白木の建物が神社建築の形で独自の発展を持続したり、江戸時代になってにぎり寿司が文化の中心部へ躍り出ていったように。
私の場合は、なんとしても日本の生活になじむために、あるときからキムチを断って意識的に和食を食べるようにしたのが大成功だった。そうやって、しばらく「味の薄い」和食を食べていると、だんだんと舌が鋭敏になってくるのである。それまでほとんど感じられていなかった素材の味がじんわりと伝わってきて、しだいに微妙な味付け具合の感覚までがわかってくるようになる。なるほど、そういうものなのかと、今度は和食を食べるのが楽しくて仕方がないという時期がしばらくの間続いた。
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