宣教師が記した「茶の湯」
黄金文化と茶の湯
よくわかる伝統文化の歴史③
より
宣教師が見た「茶の湯」と「数寄」
西洋人の茶に関する報告は、早くはイタリアの作家ラムージオによってなされています。枯れの『航海記集成』(1559年出版)には、「明国では、一種の植物の葉を引用している。これはチャと呼ばれ、貴重品である」「中国ではいたるところで茶を飲んでいる。それは空腹の時、この煎じ汁を一、二杯飲むと、熱病・頭痛・腹痛・、あるいは腰痛・痛風など関節の痛みがなおる」と中国における喫茶の習慣と茶の薬用効果が紹介されています。また、1560年に中国を訪れたポルトガルの宣教師ダ・クルスは、「明国では、後期の家に来客があればお茶という一種の飲み物を供する。それは苦味があって、紅色をsており、薬になるという」と報告しています。日本で茶の湯が盛んになり、「数寄」という文化となろうとしていた時期に、中国においても富裕階級で喫茶が盛んになり、薬用としては一般に飲用されていた様子がわかります。
宣教師ロドリゲスの見た日本のお茶に関する報告を聞いてみましょう。
「シナ人および日本人の間では、茶chaを飲む習慣は王国全土にわたって共通で、客人をもてなす第一のものは茶chaである。(中略)日本人は茶に大きな価値を認めた。そして茶を最高度のものと考えるので、客人がたとえ高貴な人であっても、また、天下tenca殿自身であっても、茶で客人に敬意を表し、歓待する。」
この報告が正確であるとしますと、彼が見た範囲においては、茶の湯による接待が身分の上下にかかわらず、あらゆる場面で目撃できたということになります。さらに彼は茶の湯についていろいろと調べたようで、足利義政時代の茶についても報告しています。
「この東山殿の生存中に、そういう家で茶に招待することが、宮廷でも、日本のその他の地方でも、単に貴人だけでなく、さらに庶民で引退して珍しいことを好む人々の間に、特に都と堺の二つの都市において盛んになっていった。」
ロドリゲスのこの記述はあくまで、日本人から得た知識によって書かれていますから、これが事実かどうかはわかりません。しかし、当時の日本人がそのように考えていたことだけは事実です。そして、重要なのは次の一文です。
「茶の招待に適した鄭重さが加わっているのを見たとき、人々は容易にそれに親しみを持ったからであり、主として、それはその中心をなす創始者が、すべての人からたいへんな尊敬と名声を博していた東山殿であったからである。これを当時からその後も、茶の湯といい、そのことを本業とする者を茶の湯者、その家を茶の湯座敷、そして道具や器物を茶の湯道具といった。」
これは「山上宗二記」の冒頭部分で、茶の湯の始まりを義政の時代とする見解とまったく同じです。天正期の人々は、茶の湯の始まりは義政にあると考えていたのです。
そして注目すべきは、茶の湯を本業とする「茶の湯」がすでに存在していたということです。
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