食文化

逆向きの文化創造

呉善花(O SonFa)
日本オリジナルの旅(日本教文社)

握り寿司職人は粋が勝負
日本文化ほど素材へのこだわりを強くみせる文化はない、それは食文化でも同じこと。日本料理ほど、見た目から味、歯ざわり、舌触りまで、素材そのものを押したて、引き立てる料理はほかにない。そのため、どんな素材もおよそ唐辛子などで味付ける韓国料理文化で育った私は、最初のころは味が薄くてとても食がすすまなかった。フランス料理や中華料理にはしっかり味が感じられるが、和食には味の手ごたえがなくてまるで食べた気がしない。それに、カニなどわずかにゆでただけで、そのままちょこっと酢醤油につけて食べるなど、なんて貧相な食べ方なのか、なぜもっとおいしい味付けをしないのかと、ずっと疑問に思っていた。なかでも、最も首をかしげたのがにぎり寿司だった。ご飯の上に生魚の切り身を乗せて、なんでそれが料理なのか、しかも鼻にツーンとくるあのワサビの感じ、あれが嫌でたまらなかった。韓国では一般に、魚の刺身はあまり食べないが、私の故郷の済州島ではよく食べるからこれはいい、けれども、刺身なら唐辛子みそをつけるのが韓国式、醤油ではこれまた食べた気がしなかった。
韓国の「なんでも唐辛子味付け料理」は例としては極端かもしれない、しかし、やはり素材を人の手によってどれだけ加工し、見た目も味も、歯ざわりも舌触りも素材のあり方とは別な独自の質をどう作り出していくかという方向性が、諸外国の料理では目指されているように思う。
それでは日本の素材主義ではいったいどうんな方向性が目指されているのだろうか、それを私は、素材の自然なあり方の質を壊すことなく、それをどのように保存し、どのように生かすかということへの強烈な嗜好性だと感じてきた。、にぎり寿司はその最たるものといってもいいだろう。

○逆向きの文化構造
にぎり寿司に典型的なのは、日本特有の逆向きの文化創造というべきものである。つまり、自然を加工してどんどん人工化の度合いを高めていくのが一般的に文化の高度化だとすれば、その逆に文化の起源へ向かおうとする方向で文化を高度化させていくのである。
たとえば刺身とか白木のままの建物などは、そもそもは技術が未発達で、さまざまな自然条件に縛られての生活を余儀なくされていた時代に由来するものだ。技術の発達とともに文化の周縁部に遠ざけられていくのが普通である。ところが日本では、そうした文化の起源にあったものが、高度な洗練を受けつつ文化の中心部で発達し続けたり、ある時代に工夫や考案が加えられて新たな文化として再生されたりすることがしばしば見られるのである。白木の建物が神社建築の形で独自の発展を持続したり、江戸時代になってにぎり寿司が文化の中心部へ躍り出ていったように。
私の場合は、なんとしても日本の生活になじむために、あるときからキムチを断って意識的に和食を食べるようにしたのが大成功だった。そうやって、しばらく「味の薄い」和食を食べていると、だんだんと舌が鋭敏になってくるのである。それまでほとんど感じられていなかった素材の味がじんわりと伝わってきて、しだいに微妙な味付け具合の感覚までがわかってくるようになる。なるほど、そういうものなのかと、今度は和食を食べるのが楽しくて仕方がないという時期がしばらくの間続いた。

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民族の食

「致知」 2月号(致知出版社)
インタビュー②小泉武夫
「日本人よ、食のモラルを取り戻せ」より引用

○民族の食を捨て去った日本
小泉:さて、一方で食べる側の問題です。これはもう何から話していいのやら・・・
―食べる側の問題のほうが深刻ですか。
小泉:端的にいって、日本人が食に求めるものが、「おいしくて身体にいいもの」ではなく「安くて手軽に腹を満たせるもの」に変化してしまったのではないかと感じています。
日本はこの半世紀で民族の食文化を捨ててしまったといっていでしょう。この間、脂の消費量は4倍、肉の消費量は3倍になって、本来日本人の食文化は低タンパク、低脂肪、低カロリーだったのが、高タンパク、高脂肪、高カロリーになってしまいました。
―何が原因だったのでしょうか。
小泉:大本をたどれば、戦後アメリカが「米を食べるのをやめなさい、小麦のほうが頭がよくなる。」といって、自国で余った小麦を日本に買わせました。そこから端を発して、まだ栄養が足りないからもっとバターを食え、もっと牛肉を食えと、いろいろ要求してきたのです。
しかし、彼らのいう栄養とはカロリーベースなんですね。私は昭和18年生まれ、小学校に入ったのは昭和24年。春と秋に運動会があって、騎馬戦だ、棒倒しだと激しい競技もありましたが、誰一人として骨折した子はいませんでした。それが先日、関西の小学校の運動会で4回救急車が駆けつけたところ、全部骨折だというじゃないですか。
カロリーベースでみたら、我々の子供のころの食事なんて劣悪の極みですよ。、それを食べていた私たちが強くて、なぜいまの子が弱いのか。もうこれは民族の職を捨てたからに他ならない。
―栄養価よりもその民族に合っているかが大切なのですね。
小泉:例えば、日本人はつい50年前くらい前まで豆腐のおからやサツマイモ、ゴボウやわかめといった、本当に質素な食生活を送っていました。そうすると、なるべくたくさんの栄養を吸収するために腸が長くなるんですね。一方、アングロサクソンはもともと栄養のいいものを摂取していたから、腸が短いわけ。
そのように民族の食に応じて人間の身体、要するに遺伝子ががつくられます。それが、まるで草食動物が肉食動物に変わったくらいに急激に日本人の食が変化し、もう身体がついていけなくなっている。これほどの短期間に急激に食文化が変わった国は世界に類を見ません。日本人がおかしくならないはずがないのです。

○強く優しい日本人をつくった七つの食材
―いま、日本人は自分たちの遺伝子と合わない食生活を送っているわけですね、
小泉:それがはっきりと現れたデータがあります。都道府県別の平均寿命ランキングを見ると、この5年のうちに沖縄は長寿権ではなくなりました。
―え、そうなんですか。
小泉:いま男性の平均寿命の一位は長野、二位は滋賀、沖縄は二十七位まで下がりました。
もともと沖縄は「琉球王国」として独立していて、日本よりもむしろ中国の影響を受けていました。だから食にタイs知恵も「薬食同源」つまり食べものは薬であるという中国古来の考えが徹底していました。
ところが、戦後アメリカに統合されましたね。日本に変換されてからも米軍基地があるから、その影響で食文化を含むライフスタイル全般がアメリカ化されてしまいました。
沖縄は県庁名例ですが、いまや日本全体が欧米の食生活に席巻されたといっていいでしょう。先ほど脂の消費寮は4倍、肉の消費量は3倍と申し上げましたが、逆に3分の1~4分の1までに減った栄養分もあるんです。
―何でしょう、それは
小泉:かつて日本人が丈夫で心優しかったじぢあに食べていた食材は、実は七つしかないんですね。
・根茎
・菜っ葉
・青果(果物、トマトやキュウリなどの瑞々しい野菜)
・マメ(特に大豆)
・魚
・海藻
・米
今、こういった食材は日本の食卓から姿を消しつつありますが、これらに多く含まれているもの。それがミネラルです。
―ミネラルが昔と比べて三分の一近くまで減ってしまったと。
小泉:はいミネラルというのは大切な働きをしていて、まず最近の医学で明らかになったのは、ミネラルが不足すると認知賞が早く出やすいといいます。
また、男性側の原因で赤ちゃんができにくくなる。また、「キレる」のも、ミネラルの不足と大いに関係しているおいう研究結果が出ています。
(中略)
いま子供たちに対して食育をしなければといわれますね、しかし、私は、食育とは大人がしなければならない勉強だと思います。大人が食の意識を高めること。要するに、安さや手軽さを求めず、安心で安全な日本の食材を使って手間と心をこめて、日本人の身体にあった食事をつくって食べること。
そうすれば日本の食料自給率は上がり、徳のあるこどもたちが育つのです。それが日本が豊かで徳のある国になる第一歩ではないかと私は考えています。

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モノリスの正体

先日JAXAのショールームで買ってきたモノリス、宇宙YOHKANを食べてみた。
なんと普通の羊羹だった。
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宇宙食

東京駅丸の内北口の目の前にある丸の内OAZOの中にJAXA(宇宙航空研究開発機構)のショールームがある。
http://www.jaxa.jp/ショールームの一角には、実際に宇宙に持って上がった宇宙食が売られている。
その一つがこれ。
「2010年宇宙の旅」で月に飛んでいったモノリスではない。宇宙YOHKANである。

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海苔と米とコンビニ

「森と山と日本人 自然と人間の共生」 仙道富士郎編著 (NTT出版)
 
森は海の恋人 畠山重篤 より

日本で海苔が採れる最大の漁場は有明海です。有明海というのは筑後川という大きな川が流れ込む大汽水域です。日本で100億枚海苔が採れているのですが、そのうちの40億枚が有明海で採れているのです。
100億枚採れている海苔のうち、なんと30億枚はコンビニで売られているおにぎりや海苔巻きに使われているのです。コンビニで一年に売られるおにぎりは、20億個だそうです。おにぎり一個は米にしたらどれくらいでしょう。あのおにぎりはほとんど海苔で包んであります。海苔と米は密接な関係があるのです。海苔巻きもそうです。何年か前に有明海の海苔が不作になりました。そのとき値段が4割上がったのです。コンビニでは海苔の値段が上がってしまったので、安い海苔しか使えなくなりました。安い海苔というのは、汽水域でない外側の塩水の濃い所で採れる海苔が開発されているのですが、そういう所の海苔というのは、色は黒いけれども固くてビニールのような感じで食いちぎれないのです。それでおにぎりを包んだものだから、おにぎりがまずくなってコンビニの売上が落ちました。おにぎりが売れないということは米の消費が減るということです。これは山形のようなお米の産地にとっては大変なことなのです。
それから寿司屋の寿司ネタの多くは、汽水域で採れます。だから汽水域を大事にするということは、米の消費につながっていくことですし、日本の食料戦略上からいっても重要な意味があるのです。やはり日本は米と魚の文明に戻らなければならないということです。


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汽水域の海苔と牡蠣

「森と山と日本人 自然と人間の共生」 仙道富士郎編著 (NTT出版)
 
森は海の恋人 畠山重篤 より

たとえば寿司屋の看板は東北の場合はだいたい江戸前と書いてあります。関西は箱型に入れる押し寿司ですが、江戸前はにぎりの上にネタをのせたものです。江戸前の語源は、江戸の前、東京湾の目の前の海で、すしの上にのっけるすしのネタが豊富に採れていたからです。いまでも採れているのです。
代表がなんといっても浅草海苔という海藻です。昔は海苔といえば浅草海苔が代名詞でした。東京湾は大量に海苔が採れていたのです。一昔前、海苔はものすごく貴重なものでした。私たちの年代から上の方は、いまみたいに日常的に食べるということはできませんでした。正月とか祝い事のときにしか海苔をご飯のおかずにすることができないくらい貴重品でした。海苔も川が流れ込む汽水域を代表する海藻です。なぜ汽水域かというとこれはまた秘密が一つあります。夏になるとワカメや海苔などの海藻類は消えます。海苔は夏のあ間どこにいたと思いますか。このことをずっと日本の学者は江戸時代以前からある海苔の歴史から血眼になって探していたのですが、いくらやってもわからなかったのです。なんとこれだけ海苔を食べている国の水産の学者がそれを発見できなくて、イギリスの女性の学者ドルーさんに発見されてしまったのです。

イギリスでも海苔は養殖されています。その女性の学者が汗顔を歩いていたら、通常は白い牡蠣の殻の内側が黒っぽくなっているのを見つけたのです、おかしいなと思ってその牡蠣の殻を顕微鏡で覗いてみたら、そこに胞子のようにクモの糸のように広がっているものがあり、それをよく観察してみたら、海苔なのです。つまり、海苔やワカメや昆布の胞子は、春先牡蠣の殻に穴をあけてその中で増えて夏を越すのです。これらの胞子は秋のお彼岸の時期に熟し、牡蠣の殻から飛び出してきてまた海苔が増えます。そういうことがわかったのです。海苔の種というのは、天然でしか付かないですから、その年によって好不況の差がものすごくありました。つまり河口でなぜ海苔の種が採れるかというと、そこにアサリやシジミや牡蠣などの貝がいるからです。だからこの汽水域がきちんとしていないと、海苔の胞子がそこから出てこないということになります。浅草海苔という美味しい海苔がまず東京湾で採れます。

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汽水域の話

「森と山と日本人 自然と人間の共生」 仙道富士郎編著 (NTT出版)
 
森は海の恋人 畠山重篤 より

日本は真ん中に脊梁山脈があって、日本海と太平洋に川が流れ落ちている国です、二級河川までいれると約21000本の川が流れ落ちているわけです。最上川もその一つなのですが、日本の周りの海というのは、全部汽水域というふうに捕らえていいでしょう。もともと汽水と言う概念は昔の八郎潟だとか、現在では島根県の宍道湖だとか、よくシジミが採れるところです。あるいは昔の霞ヶ浦だとか、塩分濃度が薄い水域が汽水という捕らえ方もあるのですが、私は大きく見れば日本の周りは全部汽水域ではないかと思います。そうすると日本という国も俯瞰してみれば、陸上に緑の森があって海にも森があります。汽水に抱かれた国が日本ではないかという観点に立って日本という国を見ていくことができます。
つまりこの国では、典型的な水の自然循環が行われているのです。海から蒸発した水蒸気が雨になり雪になって山野に降り、陸の植物を育て、そこの腐葉土をとおった水がまた川から海に供給されて海の森も育てていきます。この循環の中に山形大学もあります。そうすると川の流域に住んでいる人間が、この海の森林を枯らさないような生き方をしなければいけないわけです。両方そろって一人前といいますか、どっちが嗄れても地球の未来はないということは見えているのです。そこで、人間がどこをどうみてどういう思いで生きていくかという研究が、これからなされなければならないのです。私は漁師のくせに山に木を植え始めて、いまそのことに気がついているのです。


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近畿地方の人たちはパンが好き!

「崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から」 NHK放送文化研究所(NHK出版)より

意外なものに「地域色」

今の世の中、よほど特別なものでないかぎり、どこに住んでいようと、たいがいの食べものは手に入る次代です。この土地ならではという郷土食や食習慣は、日常生活ではしだいに姿を消しつつあるのでしょう。そんななかでも、くっきりとあらわれた意外な食べ物の「地域色」の話です。
今回の調査では、ある特定の日(2006年3月10日金曜日)の朝食について、さまざまな質問をしています。朝食をとった人のうち、「ごはん」を食べたと答えたのは、54%、「パン」は42%と、「ごはん」派がやや上回っています。(ちなみに、ごはんもパンも両方食べたという人が1%いました)。これを地域別に見ると、ほかの地方で「ごはん」が優勢ななか、近畿地方だけは「パン」の比重が突出しています。
もちろんこれは、特定の一日、それも朝食についてだけの傾向です、しかし、総務省が行っている家計調査でも、近畿地方はパンの購入が金額、数量ともに群を抜いています。また全国の県庁所在地の比較でも、神戸市や京都市など、近畿地方の自治体でパンの購入金額、数量の高さが際立っています。(ただしここでいう「パン」には、サンドイッチやハンバーガーという調理パンは含まれません)。「近畿地方の人たちは『パン』が好き」説は、どうも朝食に限ったことではなさそうです。
近畿でパンがほかの地位よりもよく食べられているのは、いったいなぜでしょう?
一つ推理できることは、この地域がうどんやお好み焼き、たこ焼きに代表されるように、伝統的に「(小麦)粉」に親しんでいる地域であることです。また、老舗のパン屋さんが数多くあるといわれる神戸からパン文化が浸透していったということも考えられるかもしれません。あるいは、すぐに食べられて準備や後片付けが楽なパンのほうが近畿の人たちの気質に合っているとか・・・
それにしても一見地域性があまりないように思われがちなパン食に、kのような地域色があらわれるのは面白いことですね。

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「地元食材重視」か「外国料理への関心」か

「崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から」 NHK放送文化研究所(NHK出版)より

「地元食材重視」か「外国料理への関心」か

「もったいない」のほかにも、年層別で違いがはっきりあらわれた項目があります。その違いも若年層で低いケースと若年層で高いケースがあります。四つの項目について、年層ごとの割合をみてみます。
「地元の食材をなるべく食べるようにしている」と「ファストフードやインスタント食品はほとんど食べない」は右上がりのグラフになっています。つまり、高年層ほどそう考えている人が多いという傾向です。先ほどふれた「スローフード」の考え方は、高年層のほうが受け入れやすいと言えそうです。
一方、「食べたことのない芸国料理を食べてみたい」と「食事にお金をかけるより、ほかのことにお金を使いたい」は右下がりのグラフで、若い人ほどそう考えている人が多いという傾向があります。「食べたことのない外国料理を食べてみたい」という新しいものへの好奇心は若い人たちの特長といえます。単なるカレーではなく、キーマカレー、グリーンカレー、チャーハン、ラーメンだけでなくナシゴレン、フォー、スパゲッティ、マカロニだけでなくペンネ、フェットチーネ。次々と新しい名前の外国料理がお店のメニューにあらわれて広がっていきます。
このほか「名産品や地域限定の食べものに興味がある」も「外国料理」ほど顕著ではありませんが、女性を中心に若い人でそう考えている人が多いという傾向があります。このデータをみて、各地の観光地のお土産品として、全国的に発売されているスナック菓子類の地域限定版の商品が並んでいるのが思い浮かびました。「地元の食材をなるべく食べるようにしている」が高齢そうで高いのと反対の傾向があるのは、伝統的な名産品だけでなく新しい商品を含め付加価値のある食品に興味があるということのようです。

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朝食に何を食べているのか

「崩食と放食 NHK日本人の食生活調査から」(NHK放送文化研究所世論調査部編 NHK出版

p19 ごはんかパンか、おかずも食べるか

朝食を「食べた」人を対象に、3月10日(金)の朝食のメニューを選択肢から選んでもらいました。
多い潤に並べると、「ごはん」54%、「野菜・果物」46%、「みそ汁」44%、「パン」42%、「コーヒー、紅茶など」36%・・・・・などとなりました。朝食を食べた人の半数以上の食卓に「ごはん」がのぼっていることがわかります。野菜や果物も半数以上の人が食べていました。
この朝食のメニューでも年齢層によって差が見られました。
日本食の定番「ごはん」「みそ汁」は高年層の食卓にのぼっています。「ごはん」は10代で43%、20代で42%42%に対して、79代以上では72%を占めます。また、「みそ汁」は10代、20代では30%にも満たないのに対し、60代では51%、70代以上では68%を占めています。
また高年層ではおかずもしっかりと食べています。「卵」「豆腐」「野菜、果物」のいずれも60代、70代以上で全体より高くなっています。反対に、20代から40代に多く、60歳以上であまり食べられていないのが「肉、ハム、ソーセージなど」でした。
それでは朝食の栄養バランスはどうでしょうか。主食がごはんかパンであるか、おかずも食べるかどうかで七つに分類し、まとめました。

Photo

全体平均で最も多いのは「ごはん・みそ汁・おかず」の37%、以下「パン・おかず」が21%、「パン(おかずなし)」20%、「ごはん・おかず(みそ汁なし)」が8%と続いています。
「ごはん・みそ汁・おかず」の組み合わせは、男女とも高年層が全体平均より高く、男性は53%、女性は51%で、半数が「ごはん・みそ汁・おかず」の朝食をとっています。
一方、若年層では、朝食を食べない割合が全体より高いだけでなく、食べている人でも、パンだけのバランスの悪い朝食をとっている人が3人に1人の割合となっています。

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初めてのコンテンポラリーアート 茶の湯の陶器

黄金文化と茶の湯 よくわかる伝統文化の歴史③ 淡交社

初めてのコンテンポラリーアート 茶の湯の陶器

国産のやきもの―陶器が、町衆たちの需要にこたえて新しい生産体制を整えたのは、茶の湯の陶器、喫茶のための器や茶を点てるための道具の分野でした。

また、室町時代から桃山時代前半までは、茶の湯で用いる茶入れや茶碗などの陶器も特別に大切にされ、唐物が中心でした。しかも300年以上前に輸入した骨董品の中から、したがって、すぐれた茶人であるためにの資質の一つに「目利き」と証する茶の湯に適するものを選択する力、選別眼がもとめられました。
なにも先例のないところから、新しい形態や存在感を作り出すことを創造活動とすれば、それは芸術の分野に属します。この最初の活動は、楽焼茶碗の創出から始まりました。
楽焼は、窯業の発展史からみるならば「異端」といっていいほどの特殊な位置を占めます。なぜなら、窯業は土器のように堅くない低火度焼成の製品から磁器のように堅い高火度焼成の製品へ、手づくねによる整わない制作から轆轤や型を用いる端正な制作へ、一品制作から大量生産へ、というように発展するからです。桃山時代後半(16世紀後半)の窯業がまさに近世窯業にふさわしい、高火度焼成と大量生産を可能にした新規な構造の窯を生み出し、制作技術を飛躍させたそのときに、窯業の歩みにすべて逆行するかのように、楽焼が出現しました。楽焼は、手づくねによる一品、それも京の市中に窯を構えた「内窯」と称する小規模生産を旨としました。
この楽焼を作らせたのは、千利休(宗易、1522-91)です。
楽焼茶碗と千利休との関係を伝える記録があります。それは、奈良の豪商塗師屋の父子3代にわたる茶会記「松屋会記」の中の「久政茶会記」です。天正14年(1586)10月13日朝の条に
「一中坊源吾どのへ
三条敷、自在釣物、ツルヘ サツウ 宗易形ノ茶ワン ヲリタメ メンツ 引切(以下略)」
(「茶道古典全集」第9巻)
とあります。
中坊源吾はならの代官です。茶の湯に通じたなら衆を代表する人物で、しばしば茶会を開き、「松屋会記」に記録されています。中坊源吾が開いた茶会に招待された松屋久政がこの日の道具を自分用のメモとして箇条書き風に書きとめたものがこれです。
「(茶室は)三条敷き。(釜は)自在で下げる釣物、(水指は木製桶形の)釣瓶(ツルベ)、(抹茶を入れる茶器は木製漆塗りの)茶桶(サツウ)、宗易形の茶碗、(茶杓は竹製の)折り撓め(オリタメ)、(水翻(コボシ)は木地曲げ物の)面桶(メンツウ)、(蓋置きは青竹の)引切(ヒキキリ)」
と解釈できます。この日の茶会の道具は、国産品のみで構成した茶会であり、国産品の同時代(コンテンポラリー)の製品主体で茶会を開くことは、当時もっとも流行した茶会のあり方でした。唐物を重要視せず、国産品を使い、古い道具ではなく新品を用いる茶会は、現存茶会記から推定すると、天正10年代中ごろから後半にかけて定着しました。「新しい茶道具は奈良から始まった」といってよいほど、堺や大阪、あるいは京とは違った革新性が奈良にはありました。たとえば「瀬戸茶碗」「黒茶碗」(現在の美濃焼き)や「今焼き」(楽焼)といった新規な国産の茶碗は「松屋会記」にしばしば登場します。

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料理と器 食道楽の審美眼について

「魯山人陶説」より
料理と器物

中国料理の食器を使っている日本料理
日本料理に使っている上手物の陶器の食器は、多く中国で出来たものである。殊にわが会席料理に尊重する器具の例を挙げるならば、染付けの各種、青磁万体、呉須赤絵、金襴手類などは、残らず中国の食器として生まれたものである。それを3、400年以来、日本料理に適当として調和させている手腕は、慥かに一見識というべきである。以って当時の人々の鑑賞力のほどもわかって来るというもので、所謂古渡り物は、今日なお食器の催行権威として取り扱われている次第である。
ところが本場の中国では、旧い優良な佳器は殆ど地を払って皆無というありさまである。このように本場の空虚になった原因は、日本人に上手物を選抜されたということと、その後は欧米人にも選り取られた結果である。しかし、外国には現下所有物の図録などに徴して日本人の良しとする素晴らしいものはあまり輸出されていないらしい、大体において日本人が掘り出したあとの選り屑といった形であるらしい。
かように本場の中国では、よいものは出尽くしているのに反し、日本では中国の優れた品を今も使っていて、しかも、その使途が動きのとれぬところまで発達しているのは、吾ながら感服の至りである。
  良い料理には良い食器が入用で、
  良い食器には良い料理が要求される

このようにして、良い料理には食器の選定が大いに、必要を生じてくるものである。たとえば、ここに良い料理があるとしても、それを盛るべき器物が偽者や粗悪品では、料理の価値の引き立たぬことおびただしい。
ここにまた名什の鉢があるとする。、これに不様な不調味な菜肴を容れれば、名器の価値は泣かねばならぬ。要するに料理の美と容器の美は両立して、はじめて最善の馳走ということになる次第である。
しかして味覚を十分に感じ得るものは、是非器物の鑑賞眼が入用であって、そこに始めて料理通完成を称すべきであると思う。
食器の鑑別が充分に行き届いていて、深い心入れになる真実の料理には、真剣みがある。真剣の料理は一種の芸術的生命を有する。かようにして芸術的作品の器物とはじめて調和の美を得るに至るものである。
良い料理には盛り方の美しさ、色彩の清鮮、包丁の冴え、すぐれた容器との調和、それらに対する審美眼がなくてはならない。
また、佳味を賞している席、即ち建築物に就いての審美眼がなくてはならない。
さらに林泉の幽趣、あるいはその境の山水に対する審美眼もなくてはならない。
その中の一つに通ずる素質があれば、必ずその他の鑑賞も出来るようになるものである。
この三つの審美眼を包含し、総合してたっているものは茶道である。即食道楽の極致であり、食道楽の完成である。(昭和5年)

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主食と副食  おにぎりエピソード

食の文化(講談社)
肉食文化と米食文化 鯖田豊之 より

主食と副食
日本人の食生活の中で、米を毎年作ってきたということからくる特徴は、「お米さえあれば」、という考え方です。ともかく毎年お米を同じ水田で作っているのですから、そこから米が主食であるという観念が出てくるわけです。
(中略)
この主食という観念が、いかに日本特有の奇妙なものかについて、深田祐介さんがふきだしたくなるようなおもしろい実話を紹介しております。(『日本商人事情』新潮社)。あるメーカーの社員が中近東とアフリカを回ったあと、パリ経由でロンドンへ行くということになったときのことです。だれかが気を利かせて、アフリカまわりのあとではたぶん日本食に飢えているだろうから、・・・とパリの空港で日本食を差し入れしてやってくれとの連絡を知り合いの奥さんにしておいてのですね。ところが飛行機がおくれて、パリの乗り換え時間があまりなかった。ほとんどお礼の言葉もそこそこに、紙袋に入った日本食をそのままもらってロンドンへ飛びたったのです。
問題はロンドンの税関での荷物の検査のときです。本人は紙袋に何が入っているかわからない。「これは何だ」というので、「食べものだ」と。袋をあけると、中から丸いこぶし大の真っ黒なものが転がり出てきた。税官吏はなにやら大声を出してとっさにうしろに下がった。本人もびっくりしてうしろへさがった。つまり爆弾と間違えたわけです。
ところがちっとも爆発しない。それで本人が頭を上げて見たらにぎりめしがカウンターにのっているわけです。のりで巻いてあるにぎりめしが。それで結局爆発しないものですから、「これは何だ」というので、とうとう税官吏の前、たくさんの人の見ている前でおにぎりを食べさせられたということです
深田さんも、「よく考えてみると、おにぎりというのは、なるほど日本人にしかわからない珍妙な食べものだ」といっていますが、私もそれを読んでなるほどと思いました。のりを巻いたおにぎりをはじめて見せ付けられたら、だれも食べものだとは気づかないでしょう。おにぎりこそは主食観念の一つの結晶ではないかと思いますが、主食と副食を区別し、主食をだいじにしてきたのが日本人の食生活です。

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食器は料理のきもの 

魯山人味道 より


仮に私が申してみますれば、料理も刺身なら刺身で、包丁の冴えとか、取り合わせのツマの色、あるいは形、そういうものを大切に注意しますが、それはどういうことかといえば、そうすりことによって料理に美しい感じを与え、全体としてみれば、料理がそれによって美味くなるからにほかなりません。
こういうふうに、料理において尊ぶ美感というものは、絵とか、建築とか、天然の美というものとまったく同じでありまして、美術の美というも、料理上の美というも、その元はひとつで、同じ内容のものであります。
そこで、料理そのものを美化すると同時に、みなさまが毎日注意しておられる、料理を盛る器も、あれこれといろいろに苦心が払われているのです。料理を問題とする人は、勢い食器をも道東に問題とする。これが当然の成り行きであります。
と言うのは、私の見るところでは、今日ひとつとして見るべき食器がうまれていない。それと言うのも、料理業者及び料理人の食器に対する関心が不足しているからで、よい食器が生まれて来ないのであります。料理業者とか料理人こそは料理をやる人であり、従って食器を預かる人ですから、こういう人が食器に対する関心を高めるなら、いやでもよい食器が生まれてくるでしょう。「俺の料理はこういう食器に盛りたい、こんな食器ではせっかくの俺の料理が死んでしまう」と昔の茶料理のようになってこそ、初めて、よい食器が注意され、おのずとよい食器が生まれてくる。食器をつくる人が、mそれに応じて高い美意識から立派な食器をつくらねばならぬようになる。

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北方の文化とソバ

「食の文化」 (講談社)
「日本人とたべもの」宮本常一 より

食物を増産することを担当したわれわれの先祖というのは、非常に英知に満ち満ちていて、それが自分の住む土地に適することがわかると、進んでそれを取り入れる。そして、秘密でそういう作物を取り入れようとして、つかまって殺されたというような話もありますが、私が調べた限りにおいては、そういう事実はほとんどありません。民衆の社会というのはもう少しおおらかなものであって、お互いが意思の疎通を持っていたという感じを深くするのです。
その一つの例としまして、ソバを取り上げることができると思います。ソバというのは、いったい日本のどこから入ってきたのであろうか。日本が原産地ではありません。私はこのソバにはかなり興味を持っておりまして、旅をしながら方々で話を聞いてみたのですが。一つは朝鮮半島を経由して九州へ入ってきたソバのルートがあるということはわかってきたのですが、どうもそれだけではなさそうです。ソバというのは、むしろ、北のほうから南へ広がっていった形跡があるのです。
そこで最近、北海道へたびたびまいりますので、北海道でいろいろな話を聞かせてもらいましたところ、あそこで、とくにもう縄文時代、いまから4000年くらい前に、北海道ではソバを作っていたんではなかろうかという話を聞きました。じつはそういうような発掘が行われていて、そしてソバがこのようにでているのだという新聞記事になりましたものを見せていただいた。明らかにその写真にはソバが写っています。それは北海道のオホーツク海斜面の遺跡になりますけれども、大体4000年くらい前です。そうしmすと、これは縄文中期になりますが、縄文中期のころにすでに北海道ではソバを作っていた。それ以外のところにもソバの花粉がたくさんでてまいります。
そうすると、そのソバはどこからきたのだろうかといいますと、シベリアから海を越えて樺太、北海道へ渡ってきた。しまのバイカル湖から東にかけての一帯というのは、いまもソバがたくさん作られています。日本でソバの栽培面積のいちばん広いのは北海道です。このようにして、われわれが蝦夷といっている地域、のちには「エゾ」という言葉で呼ぶようになりますが、その地域にはすでに縄文期からソバが作られていたということがわかるわけです。

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トウモロコシの功績と伝播

食の文化 (講談社)
「日本人とたべもの」宮本常一 より 

古くから豊富であった植物性の食物
日本の民衆というものは、戦争から離れたところに存在して、食べるものを作る。そのうえ日本では、植物性の食物が非常に豊富であった。古い時期から豊富であった。
また日本の場合には、その時期時期に食用の作物が入ってきております。そしてそれが人口を増やしていっていることになります。
これをもう少し具体的にいいますと、「古事記」であるとか、あるいは「日本書紀」であるとか、「風土記」であるとか、そういうものにでている食用作物の重要なものをあげてみますと、イネ、ムギ、アワ、キビ、ソバ、ダイズ、アズキ、ヒエ、サトイモ、ウリ、ダイコン、そういうものがでてまいります。
じぢあを一時代引き下げて平安時代の文献に当たってみますと、ササゲであるとか、エンドウであるとか、キュウリ、トウガン、あるいはナスとかいう豆類・ウリ類がでてまいります。それからヤマノイモのようなものもでてきます。おそらくは奈良時代から平安初期にかけて、大陸との交通が盛んになったその時期に、こういうものが日本へ入ってきたのではなかっただろうか。そうしてその栽培が進んでいっております。

トウモロコシの普及の仕方
さらに戦国時代の終わり頃に、スペイン、ポルトガルの宣教師たちが日本へたくさんやってまいります。そのときにいろいろの食用作物が日本へもたらされております。そのいちばん重要なものをあげてみますと、まずサツマイモがあります。それからトウモロコシ、カボチャ、ジャガイモがあり、やや時代が下がりますと、インゲンマメ、ソラマメ、それからサトウキビなどが入ってきております。
こういうようなものが海外との交易が盛んになると、それにつれて海外からもtらされて、そしてすぐ国中全体へ広がっているのです。広がり方が比較的早い。その広がり方も大名がこれを作れといってすすめて広がっていったものもないではありませんが、たとえばトウモロコシが、どのようにして日本へ広がっていったかということはほとんどわかっていません。
トウモロコシというのは、ご承知でしょうけれども南アメリカ原産なのです。そしてそれが南アメリカ大陸が発見されることによってヨーロッパへもたらされまして、そのヨーロッパからさらに日本へも伝わってくることになります。どこへ最初に伝わってきtかは明らかでありません。
しかし、これが日本へ入ってきますと、たいへんな勢いで広がっていくのです。おそらく日本へ入ってきた港の関係からみましても、九州かあるいは四国中国のあたりであっただろうと思われますけれども、この作物はご承知のように茎一本に必ず実が二つなります。これを畑に植えるときには、たいてい二粒ずつ種を落としますから、二本生えます。そうすると一株で四つずつ実がつくということになりまsて、そのうえ栽培も非常に楽なのです。根が深くおりるために、どちらかというとやせた土地のところにそれが多く作られます。

民衆の手から手を通って広がる
私は昭和14年ころから全国各地、とくに山村を多く歩いたのですが、山村を歩いてみまして心を打たれましたことは、たとえば四国地方の、ずうっと脊梁山脈の急斜面、その村々には申し合わせたようにトウモロコシが作られていました。あるいは九州へまいりますと、九州の大分県からずうっと宮崎県、熊本県にかけて、南のほうの五木であるとか五家荘であるとか、それより南は少なくなりますが、それより北側の阿蘇に沿って、それから高千穂へかけてずうっと豊後水道までの山間にこのトウモロコシがいたるところに植わっているのです。
さらにそのルートはずうっと四国山脈、紀伊山脈の中、ちょうど古生層という地層がありますが、その古生層地帯を東へ抜けて伊勢まででて、そこから海へ入って今度は三河山中へ入っていきますと、ずうっと長野県のあたりまで分布をみている。されにそれが関東へ広がってきておりまして、関東西部の山の手にいたるところにこのトウモロコシの栽培がみられるのです。
それがどのように広がっていってのだろうかということを見ますと、たとえば九州の阿蘇地方でこのトウモロコシの栽培が起こっていったのは、阿蘇の山麓の一人の女性が近畿を旅して、四国八十八箇所を回って、そして四国の山中でトウモロコシを栽培しているのを見て、郷里へもって帰って植えたのが広がったのだというような話があります。それが元禄と申しますからかれこれ300年前の話で、まったく無名の一人の女がそういう種を郷里へ持って帰ったことから、ずっと九州の阿蘇の山地へ広がっていったと言い伝えられております。
サツマイモの場合は、殿様が関係をしたり、あるいは井戸平佐衛門のような優れた代官がそれに関係しておりまして、わりあいその伝播のあとをたどることができるのですが、このサツマイモに劣らないほど、われわれの生命を大きく支えたトウモロコシが全国に広がっていった歴史が、ほとんどわからないということは、じつは民衆の手から手を通って広がっていったのだと、そうみてさしつかえないと思います。そのトウモロコシの植わっている地帯には、もとはヒエが作られていたのですが、ヒエを作るよりもトウモロコシを作ったほうがはるかに収穫が多く、効率が上がる。作りやすいというわけで、知らぬ間にその大きな交替がみられたのです。、そうして、これが山間に人を多く住まわせる大きな力になっていたとみていいように思います。

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茶道の成立前期

日本美術事件簿
千利休 秀吉に翻弄された大茶人の自死
より

南北朝から室町初期にかけての時期は、日本の文化の発展における画期的な一段階である。従来の公家層の勢力は依然として保たれていたとはいえ、一国の中心である京都には、続々と全国から武家の長である大名たちが集住する状態となって、異質な文化が加わる。
足利幕府が尊氏から次代へと徐々に移り変わるにつれて、住宅の様式にも変化が現れ、それまでの開け広げの寝殿造の空間に間仕切りがされ、部屋に畳が敷かれ、床の間がついて書院が設けられ、それにともない建物全体の構造が別のものとなる。そればかりでなく、本殿とは別に、庭園に面して建てられるさまざまな建物の一つとして、会所というものが現れる。つまり、それは遊興の場だった。武士たちは勤務の余暇に寄り合っては、三々五々、連歌会や茶寄り合いを楽しむようになり、しだいに月次の催しとなるに至って、それを取り仕切る新しい職業として「連衆」が出現する。
この会所が将軍義政の東山山荘において全面的な書院となり、正殿である寝殿に取って代わるようになって、建築革命が完成する。それに伴い、床の間を中心とした座敷飾りの方式が考案され、茶の湯が発展する。それに奉仕するものとしての同朋衆とそれに準じるものが重要性を増すのはそれからであり、戦乱の時期に武将に同道して負傷者の手当てをし、死者の処理をした時宗の僧の形態を継承して阿弥号を与えられ、諸々の行事を取り仕切るにとどまらず、将軍の側近として多くの事柄に携わる立場になる。毎阿弥、能阿弥、芸阿弥、相阿弥の四代がもっとも代表的で猿楽の観阿弥、世阿弥、音阿弥もよく知られている。


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あぶらの文化は食べものも芸術、家の構造まで変える

食の文化
「味覚と文化」より

あぶらの文化は、もう一つは酸味の文化でもあると思います。あぶらはしつこいから口の中がさっぱりしません。あぶらもののときには酸味があると、口の中がさっぱりするとよくいわれますが、これは非常によくあたっています。ですから、あぶらが普及すると、日本の場合は、トマトの使用量がふえてきます。トマトがどうしてこんなに使われるようになったか。それはあぶらが使われることと並行して、それが増えてきているのです。
また、あぶらが増えてきますと、ワインが増えてきます。ワインは強い酸を持っています。どういうワインがおいしいかというワインの味覚テストをしてみると、あぶらものをわりと多く食べる、そして食生活が洋風化しているような人は、ドライなワインのほうがおいしいと言いますし、まだ和風の生活がかなり残っている人は、スウィートなワインでないと、これはちょっとからすぎると言います。

その点では、あぶらと酸味というものは、はっきりとしたつながりをもつのではないでしょうか。ところで、あぶらの時代になってくるとワインが入ってくるということですが、ワインはブドウのg芸術だといいましたけれども、ワインが入ってくれば、ブドウそのものの芸術が入ってきますし、さらに加えて、ワインそのものに付随するいろいろなものも入ってくるのではないかということです。
たとえば、ワインには道具が伴います。ワインのような光の屈折率をもった液体は、それをグラスに入れたとき、グラスの中でワインがどういうふうに輝くかということで、味が違って感じるわけです。これはとくに白ワインをグラスに入れてみるとよくわかりますが、白のワインでも赤のワインでも、グラスのガラスの質でワインの輝き方がまったく違って見えます。質の悪いガラスのグラスにワインを入れるとあまりおいしそうにはみえない。ところが、ガラスの質のいい光の屈折率のt回グラスに入れるとワインの色がきれいにさえて見えます。トロッとした感じのおいしそうなワインに見えるのです。

よりおいしくワインを飲んでやろうということになりますと、そこにグラスというものの価値が出てくる。そして、グラスの芸術が発展していくというわけです。ヨーロッパのガラス危惧の発達を促したのは、ワインがおいしく見えるための研究によるものではないかと私は思います。
日本では貯蔵したワインが売れれていますが、ヨーロッパですと若いワインで、ことしはブドウがよくとれておいしかったからことしのワインを買いましょうということになります。日本の家屋では、そのまま貯蔵しておくと温度の上がり下がりがひどいので、ワインがまずくなります。
ところが、フランスなどでは、家庭にみな半地下倉庫を持っておりまして、そこにワインを並べております。年の若いおいしいワインを買ってきて、そこに詰め込んでおく。そうしますと、三年くらいすると熟成されてきて、おいしくなってくる。そうなりますと、ワインをおいしく飲もうと思ったら、家の構造まで変えなくてはならないということで、生活というのは、家の構造をずいぶん変えるものだと私は思います。

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あぶらの文化は体のにおいを変えてしまう

「食の文化」
「味覚と文化」河野友美より

私がだいぶ前にアメリカへ行ったとき、ずっとアメリカ人の間だけ歩いていまして、ふっと二世の人にシカゴで会いました。そうしたら、その人と話していると、ものすごく味噌汁くさいのです。やはり食べているもののにおいは、体からしみ出てくるようです。とくにみそのにおいは、丸大豆を使ったものほど特有のにおいが出てまいります。これは、やはり脂肪が分解したにおいだろうと思います。
反対に、いまのようにでんぷんが主力で、あまり大豆も使っていないような、みそからいうとインチキなのですけれども、いのいとしてはみそくさくないみそは、あまりからだからみそのにおいはしませんし、逆にいえば、そういうみそのほうが好かれているようです。そのように、食べたものの中に脂肪のにおいはずいぶんはっきり体臭としてにおってまいります。
ウナギのように下等な動物になると、もっとそれがはっきりしていて、ウナギをイワシで養殖したのか、ホッケで養殖したのか、あるいはサンマを食べさせたのかということが、ウナギを白焼きにしたとき、そのにおいが、それぞれ違ってきます。イワシをたくさん与えたのは非常にイワシくさいです。
ですから、体の中に動物性のものを取り入れますと、そのにおいが出てくるというように、あぶらの文化は体のにおいさえ変えてしまいます。当然その人が家屋の中で生活をしているときにそこにやはり臭いを消すような香水がなくてはいけない、あるいは香りがないといけないということがいえると思います。

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B級グルメこそ美味世界への土壌

現代食文化考現学―食から時代のトレンドを読む―(1989年刊) 加藤純一 より

いま、戦前の料理家として知られる北大路魯山人の人気が復活している。比較的多いエッセイなどの中で魯山人は、“美味”つまりガストロノームについて多面的に話しかけているが、「美味の根本は材料にある」として中国の随園を引用、材料六包丁四の比重をおいている。このウェイトのおきかたは多くのレストランの一流シェフもほぼ同様のようであるが、これを先述したグルメ・ブームの昨今の食品やメニュー開発の中に挿入してみると結局、「味四、包丁二、イメージ四」という構造になってしまう。
 これでは、結論的に言えば味の比重は相対的に低下、“B級グルメ”と呼ばれる世界以下のものである。B級グルメは五大丼三大ライス(天丼、カツどん、うな丼、牛丼、親子丼、カレーライス、オムライス、ハヤシライス)といったメニュー・レベルを前面に押し出したかたちで、先行していたグルメ・ブームに一矢を放った格好で登場した。この五大丼三代ライスは、大正デモクラシー時代から昭和初期のモボモガ時代の「旧きよき時代」のごちそうメニューであったが、B級グルメは決してそうしたレトロかという面だけではない。
 魯山人時代、もちろんB級グルメというような表現はなかったが、彼の指摘する東京の自慢料理(すし、天ぷら、豚カツ、牛鍋、そば、うなぎ、おでん)は大衆性において昨今のB級グルメに通じるものがあり、その特性として次のような点を指摘している。例えば酒に適さず、惣菜料理ないし家庭料理的である、下手(げて)、美食、手っ取り早く、くどい味・脂っこい味・・・・といった点である。魯山人は惣菜料理のポイントを「手のかかる工夫を一切排除して、なるべく安易に入手できる安価あ食品材料を選び、口に充分な喜びを与え栄養もある」ことにおいているが、これは、まさにB級グルメの世界であり、一般の食堂、レストランのシェフ・板前の信条でのある。見方をかえると多くの家庭ですでに失われつつあるものがB級グルメとしていま外食市場に復権したのである。本来の“グルメ”世界は、そうしたB級グルメが日常の食生活にしっかり根をはっている中で、原料を美化し、眼を楽しませ、五感を満たし和ませて味わう人たちをガストロノームへと高めるという“深耕”型世界にある。
 このように考えると、昨今のグルメ・ブームの実体は「食べる場」を中心に皮膚感覚をくすぐる情報的グルメであり、料理のブランド化にほかならない。このブランド化が限りなく食のファッション化とか、エンターテインメント化といった価値領域と融合(フュージョン)している。すしバーと新しいすしは、話題性という情緒的おいしさが人気を呼んだし、業態変化もメニュー開発も話題性をねらったフュージョン現象ばかりであるといってよいほどであり、食べモノとしてよりも、むしろ食べ方(スタイル)の方向へといまもエスカレートしている。
 その結果、“彩色”というキーワードやコンセプトが生まれるように料理の世界はカラフル化とデザイン化への傾斜、これに伴ってバラエティに富んだ食べものを少しずつ食べる“選食”によって、むしろグルメとは対極にある“虚食”の世界へと変質しているのが現状である。

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アンパンはすばらしい発明品です

「食の文化」
「食の社会学」加藤秀俊より

 ハンバーガーというきわめて大衆庶民的なものを例に挙げましたけれども、日本の例で一つだけ挙げておきますと、私がやはり感動をとどめることを知らないのはアンパンです。これはすばらしい発明品です。つまり一方にはまんじゅうの伝統があった。それから西洋から製パン技術が入ってきた。日本の製パン技術は非常に優秀でして、これは十六世紀ころのポルトガル人のノートの中にも、日本のパンは非常においしいと書いてあります。
 まんじゅうもまたそもそもの起源からいいますと、羊をいけにえにしたことの名残なのです。諸葛孔明などもそれをやっておりますが、川の水が非常に増水しているとか、天気が荒れている、そういう水の神様を慰めるために羊を犠牲にして、その頭を水の神様に捧げた。ところが、あまり羊を殺してはかわいそうだという人道主義が働いたのか、それとも羊が高かったのか、いなかったのか知りませんけれども、あるときふと知恵者がいて、同じようなものをつくれば神様は満足してくれるに違いないというので、内側に肉を詰めて表側に皮をつけたマントーをつくった。ですから、中国のまんじゅうは肉まんじゅうでしょう。内側にあるのは羊の脳髄で、外にあるのは羊の頭の皮膚を象徴しているのです。これがマントーの起源であります。ですから、中国では肉入りというのがマントーというものです。そのマントーが日本にきて、禅宗の坊さんたちは肉を食べませんから、そのかわりにあんこを入れました。
 そういうまんじゅうの伝統が一方に連なっているのです。そこに西洋から今度は製パン技術が入ってくる。パンとまんじゅうをどうやったらつなげることができるかという工夫が凝らされ、その結果できあがったのがアンパンというものです。

つまり食べものというのは、文化と文化が交わるための大きな原動力にもなったし、また文化と文化が交じり合う過程で、アンパンだのハンバーガーのように、それぞれの文化にあったような仕方で修正され、作り直されていくものだということです。

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食べ物は人間の知恵によって換骨奪胎を繰り返す

「食の文化」
「食の社会学」加藤秀俊より

ハンブルグで始まったハンバーガー 

人間の知恵というのはまことにりっぱなもんでありまして、よその国からある種の食品を手に入れても、それを変えていく能力をもっております。食品による世界の文化交流史は一冊の本にまとめることができるほど、興味の尽きない話題でありまして、いくつかの例の中から申し上げますと、たとえば私が非常に卓抜だと思うのはハンバーガーであります。ハンバーガーの起源については、研究書は非常に少ないのですけれども、その起源はこういうことになっております。
 ご存知のように十三世紀にモンゴル帝国が非常な拡大を示して、一方で東のほうには日本のすぐそばの朝鮮半島の突端まで来まして、元寇の役が始まるわけです、そこまでジンギスカンの軍隊が出てくる。西のほうはドナウ川までまいります。そこで、中央アジア、蒙古に根拠を置くモンゴル帝国では、肉食が主でありまして、羊や牛の肉を生で食べる食べ方を持っていた、今日でも、好きな方はタルタルステーキというのを召し上がります。タルタルステーキというのは、生のひき肉にたまねぎを混ぜて、それに卵を落としただけのもので、いっさい加工はいたしません。
 タルタルというのはタタール人ということです。これは日本語ですと韃靼人になるわけです。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の中に「韃靼人の踊り」とのがあります。あの韃靼です。タルタルというのはそういうことです。タルタルステーキ、タルタルソースというのは韃靼人、つまり蒙古から来た人たちが持ってきたのです。
 ところが、そのころバルチック海で商業を営んでいたドイツの船乗りたちが、たまたまタタール人と会いまして、そこで生の肉をこまかく刻んで―ひき肉の機械は当時ありませんからきっと切り刻んだのでしょう―食べる習慣を持って帰ってきた。その母港がハンブルグであります。ハンブルグに持ってきて、船乗りは、海外新知識をさっそく応用して牛肉をチョンチョンと刻んで食べる。しかし、普通の市民は生の肉を食べる気がしなかったので、ひき肉を固めて焼くという方法をつくった。それがハンバーガーステーキという言葉の起こりであります。
 要するにハンブルグで始まったからハンバーガーステーキです。私は、たいへん好奇心があったので、ハンブルグに行った時に、ここではなんと呼ぶかと聞いたら、ドイッチェステーキと呼ぶのだと教えられましたけれども、これは明らかbにハンブルグというと指名と密着しているのです。


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茶寄り合いが茶道の原型

「食の文化」 (講談社)
「食の社会学」加藤秀俊より

しかし、そうした神様からちょと離れて、もう少し現世的なところで、共同体意識をつくるための食事というものを考えてみますと、中世の日本の村落で行われていた「茶寄り合い」というのがありました。日本史の先生に昔、私はうかがったことがあるのですけれども、中性には方々で百姓一揆が起こるわけで、お百姓さんが集まっていると、これは過激派だということで、集会してはならんということになるわけですが、みんなで寄り合ってお茶を一杯酌み交わすというのは社交の問題ですから許されたのです。
 そこで、茶寄り合いを催しまして、茶飲み話をするというたてまえにしておきながら、実際には村のこれからをどうしようかとかなんとかいった、わりあいまじめな議論をした。この茶寄り合いがやがて茶道に展開していくわけです。これが大体十五世紀の末から十六世紀のはじめにかけてです。そして、今日の裏千家、表千家といったような茶道に展開していく。しかしその原型は茶寄り合いになったのです。

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箸はいちど使うと自分の魂が乗り移る

「食の文化」(講談社)
「食事と文化」多田道太郎より

箸はいちど使うと自分の魂が乗り移る
日本の食事は器を楽しみ、そしてサービスする人のしぐさを楽しむものでしょう。しぐさはじつに優美ですね。お酌するときの雰囲気は、とても言葉では言い表せない言葉の敗北です。
箸というのは、たとえば昔の習慣で、旅をして峠に行きます。峠で弁当を使うことが多いですね。そのときに箸を地面に刺しておくという風習があるのです。それは神に供えるわけです。どうして神に供えるのだろうか。神に供えるのでしたらもっとだいじな、餅を供えるとか、あるいは弁当を供えるとかすればいいのに、古い箸を供える。どうしてでしょうか。
 箸はいったん自分が使うと魂が乗り移るのです。もっとも、その前に材料としての柳箸、柳というのは神の媒体としての意味もありましたけれども、とにかく箸というのはいったん使いますと紙のよりしろとしての箸という意味が出てくるのです。橋をそこの場に置いたままにしてはいけないのです。むやみに捨ててはいけない。神様がそれを許したもう場合だけそこに刺してもいいのですね。ですからそうでない場合には、割り箸なんかの場合には、折っておくことです。それは魂をそこに残さないためなのです。割り箸というものが発明され、完成したのは1820-30年、文化文政のころであります。
大衆消費社会というものができたころに、この割り箸というのができたことに注目しなければなりません。日本は有数の外食文化をいま持っているといいますけれども、そういうもののはしりは、文化文政のころにできて、江戸の庶民がいちいち箸をもって歩くわけにいかなくなった。そこで割り箸というものを作る。割り箸は食べるのに便利でありましたけれども、魂が割り箸に残っては困るわけですね。そのためにこうして折るという習慣ができあがりました。いまでも箸紙を折る人があります。それはこの箸の魂をそこに残さないためという古風を伝えている日本人のしぐさであります。


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生き物はなぜ食べ続けるのか

中央公論6月号の特集『「食」の危機があなたを襲う』を読んだ。その中で、分子生物学を専門にしている福岡伸一さん(青山学院大学教授)が「生物にとって食べるとはどういうことなのか」というテーマで書かれている。面白い内容だったので、書いておきたい。

その中で、福岡教授は「食べ物をカロリーとだけ捉えると『食べる』という行為の非常に大事な側面を見失ってしまうことになる」と注意を促している。

どういうことか。
「食べ物は『カロリー』『エネルギー源』というだけではなく、分子レベルで見れば、食べものの分子は体のあらゆる場所に散って行き、もともとその場所にあった分子と置き換わるのである。」

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船場吉兆と食べる人のモラル

関西の高級料亭「船場吉兆」が客の食べ残しを使いまわして、他の客に出していた、という「事件」がちょっと前に騒ぎになった。四川省の大地震のニュースで消えてしまったが。

この件に関して、メディアは鬼の首をとったように女将をつるし上げた。しかし、である。

この高級料亭で、出された料理を手もつけずに残すという客の側の罪は問われないのだろうか。

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