里山とはという定義はあいまいですが、「農家が裏山を薪炭のため、肥料のために利用し、また自然が人間の耕す田畑によい影響を与え、この地帯で生物多様性も高くなる」というあたりが一般的なイメージだと思われます。
農家は自らの田畑や生活のために背後にある自然から薪炭を切り出し、刈敷や草肥を採集して田畑に投入し、持続可能な生活を続けてきたとイメージづけされ、SATOYAMAは今後の持続可能な社会を実現するための重要なコンセプトだと日本の環境省から発信しているキーワードでもあります。
しかし、太田猛彦「森林飽和」やタットマン「日本人は森林をどのようにつくってきたのか」ほかの森林の歴史を詳述した書籍によれば、江戸時代以降の日本の山は8割がたはげ山であり、森林は徹底的に収奪されてきたということがわかります。持続可能な生活とは程遠い姿です。資源は森林だけだったからです。
背後に豊かな森林を擁した里山イメージは高度成長期以降のわずかな期間に現れた、長い歴史からみれば瞬間的な事象にすぎないのではないか、と私は疑問をもつようになりました。
その良いイメージの里山観を背景に展開されているのが農村再生、村おこし事業です。昔は農山村が持続的な生活文化をもち、住民たちは精神的に豊かな暮らしをしていた、その文化を取り戻し、再び農山村を活性化しよう、というものです。少し大雑把すぎるかもしれませんが、このような論調が主流だと思われます。
しかし、歴史をもう少し俯瞰的に見れば、鎖国していた江戸時代を通じて産業はすべて国内資源を利用していますし、その資源はほとんど森林から得られるものでした。森林を使い尽くす勢いだったのです。
現代に生きる私たちは様々な道具類を何も考えずに使っていますが、江戸時代に生きる庶民、都市生活者の使う生活用具など様々な製品は誰が作り、どこから調達したものだったのでしょうか。
そうした例を列挙してみましょう。
薪炭はもちろん農家だけでなく都市住民も必要としていましたし、建材、家具、食器(木の器や箸など)は木材そのものを資源としています。陶磁器は大量の燃料を必要とし、和紙もまた木を加工したものであり、漆器の材料漆もまた山のものです。養蚕が盛んだった地域は桑の木を大量に必要としました。照明は蝋燭であり、櫨(はぜ)の実から搾り、固めたものですし、油は菜種油で行灯は木と和紙で作られています。日常の履物であった下駄は林業地帯の特産品でした。昨日から始まったNHKの大河ドラマ「青天を衝く」の主人公渋沢栄一の生家は養蚕を営んでいました。蚕は大量の桑の葉を食べますから桑畑も広大でした。
刀剣や包丁は鉄から大量の炭を使った精錬され、もちろん鋤鍬のような農具も鉄で作られたものです。塩も海岸の塩田で製造されますが、塩専用に確保された燃料用の山は塩木山と呼ばれていました。大量の炭を製造するのに、山一つが簡単にはげ山になりました。
肥料は草山から、牛馬の飼料も草山です。
こうした道具、雑貨、食物はどこで誰が作っていたのでしょう。原料のある山の近くであったに違いありません。そこを里山というかどうかは、各地の地理的条件によりますが、原料と製造は直結していた例が大半だと考えてよいでしょう。もちろん江戸の町にも職人はいましたので、家内制手工業として細かな細工物は市中で製造していた例も多いと思われます。
しかしこうした原料からの一次加工、二次加工の製造現場が里山と呼ばれる場所に多くあったと考えていいでしょう。とすると里山は一次産業地帯ではなく、二次産業地帯、製造業の拠点だったということができます。石油石炭などの燃料や電力事業に当たる薪炭製造、照明器具製造、家具製造、生活雑貨製造、製靴業、製陶業、製塩業、製鉄業、肥料飼料製造、製紙業、製糸業などが該当します。
里山は農林業地帯ではなく、製造業の集積地でした。拠点は各地に分散していますので、現代風の集積ではありませんが、分散的集積とでもいうべきでしょうか。
その物の流れを簡単な図にしてみました。
イエローストーンの25年②~目撃者ノーム・ビショップの証言をもとに
イエローストーンのオオカミ再導入から25年経った今、イエローストーンの周囲に広がるロッキー山脈でオオカミとエルクなどのシカ、そして人間社会がどのような関係を構築することになったのかをノーム・ビショップのインタビューをもとに報告します。
イエローストーン国立公園内だけでなく、同時に公園外にもオオカミは放されています。そのオオカミたちは今どうなっているのでしょう。
放獣地点はアイダホ中央です。地図を確認すると、アイダホ州北部はロッキー山脈の真ん中です。そこから西にモンタナ、南にワイオミングが隣接しています。アイダホ中央部に放されたオオカミは都市部を避けて北部山脈全体に広がりました。
【公園周辺3州のオオカミ】
アイダホ州の中央部にもオオカミが再導入され、25年後の現在、ロッキー山脈北部一帯でもオオカミが増え、生息範囲を拡大しています。
現在オオカミはイエローストーンを取り囲む3州に加えて、ワシントン州、オレゴン州に広がりました。合計するとおよそ1500から1800頭くらいの頭数で増減しています。
【オオカミの分布】
各州の詳細な分布を州のHP等から引用します。
モンタナ州
出典:Montana Gray Wolf Program 2018 Annual Report
アイダホ州
出典:2015 IDAHO WOLF MONITORING PROGRESS REPORT
ワイオミング州
出典:WYOMING WOLF RECOVERY 2016 ANNUAL REPORT
イエローストーンの25年①~目撃者ノーム・ビショップの証言をもとに
イエローストーンの25年の変化をノーム・ビショップの証言をもとに概観します。
1995年1月、イエローストーン国立公園に最初のオオカミの檻を運び込んだのはFWS(Fish and Wildlife Service)の局長Mollie Beattie、内務長官Bruce Babbitt (blue jacket) 、イエローストーン国立公園の最高責任者Mike Finleyたち野生動物行政に関わる重鎮でした。
つまりオオカミ再導入は生態系の回復のため、政府の決定で行われたことだったのです。
公園関係者、自然保護関係者は、1970年代から再導入の実現に向けて活動をはじめ、二十数年にわたって数百回の講演、数百回の公聴会を行い、博物館の展示「Wolf and Human」を全米に展開し、政治を動かそうとしていました。ノーム・ビショップはそのただ中にいて一般の市民にオオカミに関する知識を広めるため500回以上の講演を行い、再導入への関心を向けさせる貢献をしていました。
〇プロフィール
ノーム・ビショップ
ノーマン・ビショップは市民教育担当ナチュラリストとして国立公園局に長年勤めてきた。イエローストーンのオオカミ復活の以前も以後も、彼はイヌ科捕食者についての市民への講演を400回以上もこなし、イエローストーンやアイダホへの歴史的なオオカミの帰還への道筋を明らかにする環境影響評価を作成するのにも力を貸した。
【写真右】最初のオオカミが入った檻を運びこむ光景。当時の内務長官ブルース・バビットに話しかけているのがビショップ。
イエローストーン国立公園へのオオカミ再導入から25年間、ノーム・ビショップはほぼすべてのできごとを公園内で見てきました。雑誌に掲載されたノーム・ビショップの回想記事はイエローストーンとその周辺で何が起きて、何が変ったのかの理解を進めてくれるものでした。その記事をもとにビショップ本人に電話でインタビューし、その後さらに範囲を広げて調べたことで、アメリカ西部のオオカミがどのような状況なのかも鳥瞰することができるようになりました。
彼のインタビューと記事をもとに。北部ロッキーの生態系と人間社会の関係を描いてみようと思います。