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2012年10月16日 (火)

ジビエと狩猟の限界~人間にオオカミの代わりができるか

長いこと日本の自然の中では人間とオオカミが食物網の頂点にいた。

オオカミが退場し、100年以上もの間、人間だけが君臨してきたが、

人間が狩猟で野生動物の頭数まで調節できるような時代はもう終わっている、と思う

なぜ人間の狩猟が野生動物の頭数を左右できていたのかといえば、今のようにスーパーで簡単に手に入るような肉が出回っていなかったからだ。

日本では、歴史家たち高度成長期

社会変動期が激しかったのは南北朝時代と高度成長期だった」(網野善彦)

稲作農耕や鉄器使用が始まった弥生時代に匹敵する変化」(経済史家 原 朗)

「農村からの人口流出=地滑り的民族大移動」(元農業総合研究所所長並木正吉)

と表現しているほど、高度成長時代は技術革新が進み、人口が移動した時代だった。

その時期を間に挟んで、人間の技術や行動は驚くほど変化している。

70年代に食肉流通は従来と比べて格段の進歩を遂げた。畜産業が拡大し、ようやく完成した高速道路、舗装道路とチルド流通網に乗って全国くまなく、食肉が流通するようになった。

どんな山の中でもパックされた豚肉が食べられるようになったのだ。次いで牛肉の輸入が自由化され、80年代には安い牛肉が出回るようになった。山間地でさえ、牛豚肉が近所のスーパーで簡単に購入できるようになった。


その頃から猟師はいなくなった。そして山間地集落から整備された道路によって、人は下界に降りるようになったのだ。過疎が問題になり始めたのもその頃だ。

今と違ってまだ人口が右肩上がりの時代に過疎が問題になるのは、下界にもうけ仕事がたくさんあり、山間地では仕事がなくなっていったからだ。

遡れば、明治維新以来人口は増加し続け、農地は山間地へ向かって拡大し続けてきた。その過程では、食糧は十分でなく、山中に住む住人は野生肉を十分に獲り、食べてきたはずだ。

その時代は、高度成長によって終わりを告げた。狩猟者、あるいは狩猟者でなくとも、野生獣を殺し食べる習慣をもつ者は、山間地の人口とともに減った。

その頃、高度成長開始前の山間地人口は、あてずっぽうな推定だが、数百万人。終戦後全国各地に入植した開拓村(引揚者開拓団)の総数は全国で22万世帯と言われる。人口にして100万人くらいのものだろう。こちらはある程度信憑性がある数字だ。この人口が山を切り開く最前線だった。

昭和30年代までの山間地には、食うや食わずの100万人の人口があふれていた。当時、集落に現れた大型動物はほとんど集落の胃袋に収まった。狩猟人口だって、ピークだと言われる70年代以前、免許など取ろうともしない狩猟人口が山中にたくさんいたのだ。これらの話にはいくつかの傍証がある。

ジビエで野生動物を減らすには、その数十万の狩猟者の活動に匹敵する活動と、数百万人の胃袋に匹敵する消費を用意しなければならない。

先進国でシカが増え始めたのも同様の理由だろう。

途上国では依然として野生動物が食糧になり、数を減らしている。

いくらトロフィーがほしいから、あるいは管理捕獲で尻をたたかれているからといって、獲物を求めて1週間も山中を歩くことは、今はない。

その当時との力の差を自覚しなければ解決しない。

問題は、狩猟派、ジビエ派が、人間の力を過信していることだ。

人間が本気を出せば、シカの頭数調整は行き過ぎるくらいになる。

そう思っている。しかし、その本気には背景が必要である。人口と食欲だ。または金銭欲だ。

豚肉よりも、牛肉よりも強い食欲をそそる肉になるだろうか。

はるか昔、明治の時代にシカを1頭獲って、肉を売り、毛皮、鹿角を売って得る金銭は、今の金銭感覚では、おそらく10数万円にあたるはずだ。それだけのインセンティブを用意できるだろうか。


そのころ日本は乱獲の時代
だった

何十年もオオカミの代わりを人間が務めてきた背後には、食欲と金銭欲があった。
その食欲も、「飢え」に近い食欲である。
今の食欲は、グルメ。

その差は歴然としている。

飢えに代わるような強力な動機を用意しなければ、永続的な野生動物の抑制は人間にはできない。


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コメント

さらに人の「狩る」力をそいでいるのが動物愛護精神の社会への浸透・定着です。米国でシカ類のカリング(間引き)を専門にしている業者は「シカに対して行われていることを人々の目から隠せ」と推奨しています。欧米では、日本の父が息子に昆虫採集や釣りを教えるような感覚で狩猟を教えますが、そんな国においてさえ公然とは行えないような事業では、ましてこの日本では従事者は増えず後継者は育たず、シカ捕殺事業の先行きは不安なままでしょう。

日本の猟師の本音「獲ったシカを埋めるのはいやだ。いのちをいただくのだから、おいしく食べてもらいたい。利用して、そのいのちを生かしてもらいたいと思う」

シカへの狩猟圧を、人々から肯定される誇らしいものにしなければ。そのためにも、オオカミの帰還が必要だと思います。
「オオカミとともに山野を駆け、森を守る」
「オオカミと協働する狩猟官」
野生の食物連鎖の見本が復元されてこそ、その誇らしさも説得力をもつのではないかと思います。

猟師
「獲ったシカを埋めるのはいやだ。いのちをいただくのだから、おいしく食べてもらいたい。利用して、そのいのちを生かしてもらいたいと思う」

人間が食えばいのちを生かすことになっているという傲慢な考えですね
シカの肉は埋めるのが正解です。
死体を埋めてバクテリアや虫に分解、食させて養分を山に還元させるのが一番なのです。
人間が食ってしまえばそれこそ無駄になります。

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