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2018年3月28日 (水)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証4 農業事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

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オオカミ復活論入門

 

【号外】【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証4 農業事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

 

2018328

号外No.6

 By Asakura

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江戸時代に入って人口が増加し始めると、並行して食糧増産のため、耕地を拡大させる新田開発の政策が実行されるようになりました。

 

 

●耕地開拓

 

新田開発は、江戸時代には3回のブームがありました。

163070年代(寛永~寛文)、17世紀末元禄から1740年代(延享)、寛政から安政にかけての3回です。

それによって耕地は拡大していきます。太閤検地から推定される1600年の耕地面積は220万町歩(ha)でしたが、1721年(享保6年)に幕府調査による全国の耕地面積は、推定296万町歩に増加しています。

高島藩では増えた新田村の大半が163070年代(寛永~寛文)にできたものでした

 

 

 高島藩の新田開発

 

諏訪頼水(16011640)は数年間の無年貢、諸役の永年免除、集落周囲の草地占有などの免許、定書を出して新田開発を進めました。(草地と日本人)

明治になったときの諏訪郡の村は、約150ヶ村でしたが、そのうち60ヶ村がこの時期の新田村です。「茅野市史」には、延宝(1673年~)から天和(1681年~)、貞享(1684年~)、元禄(1688年~)の間に石高の伸びが大きく、文化(1802年~)期までの150年間で2倍近く伸びたと書かれています。

 

 

 収穫量増加

 

耕地面積増加に加えて実収石高の推計では江戸時代が始まる直前から元禄期までの増加率は55%と、17世紀には耕地の拡大を大きく上回る農業生産の拡大があったと推測されています。

 

 「文明としての江戸システム(日本の歴史 第19巻)」鬼頭宏 講談社 2002

 

 

人口増加を支えていたのは、収穫量の増加、つまり耕地面積の拡大と単位あたり収穫量の増加です。それは、村落の数や規模の増加と、集約化、意欲の向上、そして農業技術の向上が原因です。

農業技術イコール肥料の投入、地力の向上であり、その証拠にこのころ全国でいくつも書かれた農書は、肥料論が中心でした。(「草山の語る近世」)

 

 

 

●農法確立

 

当時の農業は、水田を中心に回っていました。水田には、山野で取得する草柴(これを刈敷と言います)が主要な肥料として投入されています。

江戸時代初期の農書に記された肥料論は、山野の草木葉の利用が中心で、草木葉の肥料としての適否の判定法が中心をなしているそうです。

 

草肥とはどのようなものかを、水本邦彦が著書「草山の語る近世」で宮崎安貞著「農業全書」(1697年元禄10年)の文章を現代語に訳しています。

「草肥とは、山野の若い柴や草(ほどろまたは刈敷)を肥料にしたものである。これを牛馬に敷かせたり、積み重ねて腐らせたり、またはそのまま田畑に多く施すと、とりわけ効果が大きい。草肥を入れた田畑の土は、軟らかくさらさらになって、いつまでも肥えているものである。草肥は柴や草の陽気が盛んな時に刈って作ったものだから、その陽気が五穀をはじめいろいろな作物の陽気を助け、作物がよく生育する」

 

各地で農民は農法を研究し、驚くほど多数の農書が流通し、新技術が全国に広まりました。収穫量を上げる決め手は肥料の使い方であり、この時代から明治まで、肥料の中心は草肥の時代が続きます。

 

江戸中期には、お金を出して手に入れるところから金肥と呼ばれた「干し鰯、油粕、大豆粕等」が普及し始めますが、金肥が多く使われたのは近畿、東海など限られた地域でした。

 

※「徳川の国家デザイン 全集日本の歴史10」水本邦彦著 小学館 2008

 

 

肥料に使用するための草地の面積は、耕作地1反(10アール)につきその10倍の1町歩(1ヘクタール)以上を要し、仮に戸数100戸、耕作面積50町歩(ヘクタール)の村を想定すると、500600町歩(ヘクタール)の草地を必要とします。

また耕作を手伝ってくれる牛馬の飼い葉も山野の草でしたので、これまた草地が必要となります。当時の資料から馬一頭につき2町歩(2ヘクタール)の面積の草地を必要とすることがわかります。(「草地と日本人」)

さらに農家一戸の薪炭使用量を計算すると、薪炭採取のための林も100戸の村なら125150町歩(ヘクタール)を使わなければ生活できませんでした。

 

こうしたことすべてが、森林を伐採し、その後の草地をとことん利用し、さらに広げることとなりました。

 

 

 

 草刈り時期

 

加賀藩の農家で、十村といわれる農村のリーダー的な存在だった土屋又三郎が書いた農書「耕稼春秋」は、1664年(寛文4年)に父の跡を継いで十村になってから書き始め、1707年(宝永4年)に書き終えたものですが、刈敷を集める時期について、こう書いています。

「野山に草生えては、九月末まで毎朝、一、二人宛草刈に農人出る」

(「江戸日本の転換点」)

 

 

また、1808年(文化5年)と少し時期は下りますが、下野国の農家小貫万右衛門が書いた農書「農家捷径抄」が、肥料の使い方、刈敷を集める時期について詳しく記しています。水本の現代語訳です。

 

「節分が過ぎて9596日ころ(西暦で5910日)からそのための草を刈り始める。刈り取る量として「一駄刈り」を村の掟で定めている。「一駄刈り」とは、馬で一駄分(6把)刈ることで、一日にこれ以上刈ることを禁じている。本格的に草刈を始めるときは、そのことを村役人が村中へ通知する。この通知があってからの草刈期間中(約1516日)は、一軒で一日に二駄ずつ刈り取ることができる。節分がすぎて110日ころ(西暦で524日)から「柴刈りの日」を村役人が通知する。これ以後は努力次第で一日に五駄でも七駄でも、肥料にする木の若芽や枝を刈り取ってかまわない。この柴刈りは34日のうちにことごとくやってしまうから、その後はやらない。ちょうどそのころは種まき、田植えで忙しくなるから。

田植えが終わると「つくて」といって草を刈り積み肥えにする。「つくて」を刈り終わったら、「夏肥え」といって99日まで毎日一駄以上、ひまがあれば三、四駄もの草を刈る。」

(「草山の語る近世」)

 

 

※「江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか」武井弘一著 NHKブックス 2015

 

 

農家の仕事は、まずは草刈。毎日毎日山に柴刈りに行って、柴を背負って、馬がいれば馬の背に載せて帰ってくるのが、一番重要な仕事でした。100戸の村があれば、100200人は毎日山に入っていたということになります。これは女子供だけの仕事ではありません。

 

 

●資源枯渇

 

これでは山にも野にも草はなくなってしまいます。

土屋又三郎も書いています。

「今の世では、人口が増えて消費も際限がない。新たに開墾できる土地も少ないので、同じ耕地を使い続けて食料を供給していかなければならない。それにもかかわらず、百姓は後々のことを考えず、目先の利益をなるべく多く得ようとする。このまま無理に耕作を進めれば、地力が衰えてしまい、いずれは農業も必ず廃れていくというものだ」

 

耕地拡大の停滞期は、開発できる土地が減り、草山までもが水田にされていたから、草を入手すること自体が難しくなっていました。そしてわずかな草をめぐる村同士の争奪戦(山争い、山論)も起こってしまいます。

 

そこで各地で草刈り、山争いを抑えるために活動を制限しようとします。たとえば、荷運びは、一度に一人一荷(一人が背負える荷物の量)、一駄(馬が背負える荷物の量)に限る、村ごとに時期の割当をつくる、開始時期を決めるとかいったことです。

 

 

高島藩では18世紀後半には東麓集落による霧ケ峰高原の利用期間について、埴原田村・鋳物師屋新田は59月、中村・上菅沢新田・山口新田は89月、塩沢村は79月と入会条件が決められていました。

近世の諏訪地域では、夏草は肥料の干草、青草、秣に、萩は秣、肥料の干草に利用されていて、現に昭和初期の採取慣行を見ると、5~6月に刈敷、6月から夏草、9月から萩となっていたようです。

また、馬の飼育は、やや東西で異なり、古い資料を調べると、西麓集落(諏訪湖側)には馬20頭、東麓集落(八ヶ岳、蓼科方面)には馬200頭が飼育されていたと推定できるそうです。

 

 

※「霧が峰高原の山麓集落による高原資源の利用と生業の変遷―近世から近代を対象に―」 浦山佳恵 長野県環境保全研究所研究報告 2007

 

 

 野焼き

 

草地も、そのまま放置していれば、良い草肥がとれなくなります。そこで全国的に野焼きの習慣が広まりました。

 

野焼き、山焼きの効用は、弘前藩の農政担当奉行が山火事の顛末を報告する文書で1701年(元禄14年)に説明しています。

「年々枯草が重なると、青草の生育が悪くなり、田畑の肥やし草や馬草などの確保が困難になる。枯草を焼却して若草の生育を促進させる野火付け(野焼き)はいずれの国でも行う作業である」

(「草山の語る近世」)

 

野焼きの時期は、通常西暦でいう3月から4月、たとえば岡山の山村、阿波村というところでは、民家の屋根材の茅の確保、牛馬の飼料としての草の確保、放牧地の確保、肥料としての草の確保を目的に、つい最近まで野焼きを行っていました。その聞き書きでは、

 

「各部落は茅刈り山、草刈山(採草地)、マキバに分けている、茅刈山にはよい茅を生やすため春3月末ごろに「山焼き」(火入れ)をする。西谷では4月に火入れをしている。4月に入ると放牧地は地区ごとに火を放って枯草が焼きはらわれる」

 

 「森と草原の歴史―日本の植生景観はどのように移り変わってきたのか―」小椋純一著 古今書院 2012

 

目的は肥料や茅ではなくなっていますが、現在の白樺湖や霧が峰でも山焼きを行っています。

 

 

つい最近、2013年に霧ヶ峰で野焼きの火が拡大して、数ヘクタール焼こうとしたところが150ヘクタールに広がってしまい、消防が出動する騒ぎになったことがありました。

江戸時代の昔も、野焼きの延焼で山火事が頻繁に発生して、各藩で頻繁に問題になっていました。

 

 

 耕地拡大の限界

江戸時代の農民にとって、田畑に投入する主要な肥料となっている草肥を安定的に確保することが、死活問題でした。

 

速水は横内村の人口を調査して

「人口増加に結び付く他の生産要素の増加―横内村の場合なら、耕地の増加―を伴うかぎりは、問題は起こらない。しかし、18世紀後半になるとこの地域の耕地拡大は限界に達した。そしてさらなる人口増加は、結果として都市への人口流出を生み出した」

と書いています。諏訪でも限界が来ていました。

 

 

 「歴史人口研究 新しい近世日本像」速水融著 藤原書店 2009

 

 山争い

 

耕地面積が拡大したため、肥料となる草がより大量に必要になり、耕地拡大が限界に達した後は、山野の所有、資源の利用をめぐる争いが日本各地で頻発しました。

背景には、草肥や馬草の採取地として利用されていた場所が、新田開発によって失われたため、村境、郡境、国境付近などひとつの村だけで管理できない境界周辺に新たな草の採取地を求めざるをえなかったことが挙げられます。

 

国境付近の山論などは、決着しない場合には江戸幕府の評定所まで持ち込まれて裁許が行われたので、記録として残っています。その件数は16801690年代をピークとして17世紀後半から18世紀前半に集中しています。

(「草山の語る近世」)

 

 

高島藩内でも全国と同じ様に起きています。諏訪湖のすぐ上にある上桑原山(霧が峰高原)をめぐる地元集落(上桑原村)との山論はけっこう頻繁でした。

 

15901600年 北大塩村

1626年 飯島村 草

1670年 神戸村 萩、蓬

1683年 神戸村

1687年 中筋村々 厩萱

1693年 北大塩村ほか3ヶ村 薪

(「霧が峰高原の山ろく集落・・・」)

 

これは上桑原山入会地だけの争論であって、他の入会地についても、多数の山論が頻繁に、途切れる間もなく発生しています。

たとえば、

茅野市史に記載のある山論を挙げれば、茅野草山、大沢山、原山、真那板原、中沢山と葡萄山、菖蒲ヶ沢、古田山、南大塩山、芹ケ沢山と湯川山、柏原山、芦田山、大門山、朝倉山、藤原山、北大塩山、後山、大畑山、永明寺山、花蒔原、大泉山、小泉山、高部山、安国寺山、片倉山、御堂垣外山

と、今の諏訪市茅野市にある山の名前をすべて並べたようなリストになります。

 

また高島藩は四方を他国に囲まれていますから、その国境でも激しい山争い、境界争論が起きました。たとえば蓼科山論は、諏訪郡と佐久郡の郡境争いで、麦草平を舞台に1637年(寛永14年)から明治直前まで延々と争いが続いています。

他にも、寛永年間に始まった八ヶ岳と山麓を中心として小淵沢村と争った「八ヶ岳山論(甲信国境論)」、慶長年間に始まった真志野山を中心として高遠藩と争った「真志野山論」、同じ時期に勝弦峠を中心として松本藩と争った「塩尻境界論」など双方の百姓が草木の採取のために入り込み、両者の突き当たるところで起こった境界論争がありました。

 

   

Photo_4

 

こうしてみると、元禄時代の諏訪高島藩領は、そうとう騒々しいところだったようです。寂しい野山で、女子供が襲われて悲鳴を上げていたような光景とはだいぶ違うイメージが浮かんできます。

 

Photo_5

 

(「絵本士農工商」より)

 

 

 

 

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