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« 【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証1~江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性 その3~ | トップページ | 失われた肉食獣を復活させることが景観を蘇らせるだろう »

2018年3月24日 (土)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証2 人口増加 (江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性その3)

 

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オオカミ復活論入門

 

【号外】江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性【諏訪高島藩で何が起きたか】その2 人口増加

 

2018324

号外No.4

 By Asakura

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諏訪高島藩で狼襲撃事件があったのはどのような時代だったのでしょうか、その時代背景、特に人口増加、森林や農業事情に注目していきます。

 

●人口増加

諏訪でオオカミ事件がおきた元禄15年(1702年)は、関ヶ原の戦いから約100年が経過し、徳川幕府も将軍が5代を数え、荒々しい雰囲気から安定の世の中に変わり、元禄は泰平の世と言われている時代でした。

 

その100年間の第一の特徴は、日本全体での人口増加です。

江戸幕府開府の1600年頃、1200万から1500万人と推定されている人口は、100年で2倍以上のペースで増え、1730年ごろピークに達しました。1700年には3100万人を超えたと推定されています。

人口増加は、産業、農業の発展を促し、経済成長が人口増の持続をもたらす好循環が続いていました。

 

※「歴史の中の江戸時代」速水 融編 藤原書店  2011

※「人口で見る日本史」鬼頭宏著 PHP研究所 2007

 

 

●高島藩の人口増加

全国的な人口増加は上記のように1730年ごろをピークに、横ばいになり、明治維新のころは3600万人と推定されています。

では、一地方の藩、高島藩の人口はどうだったのか、知る手段はあるでしょうか。

実は偶然というか幸運なことに、高島藩の人口推計、変遷は、江戸時代を通じてかなり正確にわかっています。

歴史人口学という分野の日本における草分けである速水融(はやみあきら)元慶応大学名誉教授が、日本で最初に取り組んだのが高島藩の事例でした。

歴史人口学とは、徳川幕府が、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査した「宗門改帳」(現在で言う戸籍原簿や租税台帳にあたる)をもとに生誕・死亡や結婚などを調べていく方法で、江戸時代の人口動態から経済を読み解く経済学の一分野です。

 

高島藩領は、現在の諏訪市、茅野市、富士見町、岡谷市にほぼ相当する地域ですが、宗門改帳が各村に相当残っていたため、詳細に研究することができました。

 

 

※「近世農村の歴史人口学的研究―信州諏訪地方の宗門改帳分析―」速水融著 東洋経済新報社 1973

 

 

残っていたのは、宗門改帳が使われはじめた1670年ころから明治維新までの約200年間で、明治維新の時点での高島藩150の村のうち、残存率が3分の1程度ですから、全体の人口については速水融の推定になります。

 

速水融による推定人口は、

1600年  16,00020,000

1670年  32,00033,000

1870年  55,000

となり、初期の人口増加のピークは1730年ごろとされています。狼事件の起きた1700年前後はまだ増え続けている時期でした。

 

●諏訪の古村と新田村

 

諏訪は、江戸時代以前日根野氏が支配していましたが、日根野氏は1601年(慶長6年)に転出し、古くからの領主だった諏訪氏が戻ってきます。

諏訪氏が戻ってきて初代の藩主頼水は、荒地の回復と新田の開発を藩政の重点の一つとしています。荒地の回復のためには、百姓の土地の安堵と逃散人の召し返しを行って、農民が安心して暮らせるようにし、租税の減免など優遇措置によって新田開発を奨励しました。

諏訪では慶長年間以後開発された村を「新田」、それ以前からの村を「古村」と呼んでいます。

1621年(元和7年)に最初の新田村が、1670年くらいまでの50年間に大部分の新田が成立しました。藩領全部を合わせて、60以上、そのうち茅野市域では元禄以前に約40の新田が成立しています。

新田は、新たに道と水路を整備された地域に、古村から独立する形で増えていきました。現代でいえばニュータウンを造成して、町が増えていくようなものです。

 

※「諏訪市史 中巻 近世」 諏訪市 昭和63

※「茅野市史 中巻 中世近世」 茅野市 昭和62

 

 

●人口増加グラフ

 

狼事件に登場する村名は、ほとんどが古村です。茅野市周辺の地名、南大塩、芹ケ沢、矢ケ崎、塚原、上原、小和田、埴原田、塩沢、北大塩、上桑原、福沢、横内、中金子などは古村、糸萱新田は新田になります。

(「茅野市史」)

「近世農村の歴史人口学的研究」には茅野市域の村で宗門改帳が残っている村の人口推計グラフが掲載されています。グラフのなかでY地区というのが茅野市域の八ヶ岳西麓の村の集合です。いわゆる「山浦」と呼ばれています。最初に馬が襲われたと記録にあるところですね。

このグラフに登場するのはほぼ新田村ですが、1670年から1700年にかけての急増がよくわかります。ここでは古村は最下段の中村しかありませんが、この時期はやはり右肩上がりです。途中にある一時的な減少がある場合は、新田村に一部の人が移動したような推測をしています。

 

20180319_222032

 

【茅野市域の人口増加グラフ】

(宗門改帳を各村ごとに集計した人口推計グラフ)(「近世農村」速水より)

 

 

●村の規模

 

新田開発によって村が増えていき、次にはその村ごとの規模も拡大していきます。

村の平均世帯数は、16711700年に33戸、17011750年では47戸でした。村の平均人口は、16711700年に230だったのが、17011750年に296人と増えています。

前回掲載した襲撃地点の地図に、江戸中期(18世紀)の村の位置を重ねたのが下記の地図です。

 

Photo

 

【村の位置地図】

(狼襲撃地点と青い丸が村の配置)

 

こうしてみると、襲撃事件は、ほとんど人家の密集地でおきているようです。

 

●世帯規模と勤勉革命

 

集計した村の戸数と人口から、時代ごとの世帯平均規模がわかります。高島藩では16711700年 約7.04人、17011750年約6.34人(全世帯平均)と世帯人数は減少傾向にあります。この時期、耕作面積が拡大して、肥料に使う草肥の採集地も広がり、耕作に使役する牛馬の飼料の草地が確保できなくなります。牛馬を減らしていく過程で、より人手による農作業集約化が進みました。

速水融は、これを下人、家来、傍系家族が同居した大規模経営の農業から直系家族による小規模経営への変化を表すものだと考え、次の濃尾平野の調査を経てそこから勤勉革命という理論を打ち出します。

 

労働集約ということは、田畑に出ている農民が多い、ということであり、世帯規模によっては、一家全員が野良に出て、そのうちの数人は「山に柴刈り」に出ていることが想像できます。季節によっては、見渡す限りの田畑に人がいて、働いているという光景だったと思われます。狼事件の発生時期は、まさにそのような季節です。

 

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