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2018年3月26日 (月)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証3 森林事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

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オオカミ復活論入門

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オオカミ復活論入門

【号外】【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証3 森林事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

2018326

号外No.5

 By Asakura

■■◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇■■

 

 

江戸幕府が開かれ、戦争の時代は終わったとはいえ、戦国時代の荒々しい気風、軍事優先の時代風潮は長く続いていました。

資源は森林だけの日本列島で、人口が増加すると何が起きるでしょう。

徳川家光の時代に鎖国政策に移行したため、また今のように資源を輸入に頼る時代でもないため、国際的な資源貿易もありません。

 

 

●建築ラッシュ

 

関ヶ原の戦が終わり、1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれると、江戸城の修築(慶長11年)を契機として、未曽有の建築ブームが起きました。駿府城、名古屋城をはじめ、大名が転封されることにより、全国各地で築城が相次ぎ、これにともなって武家屋敷・寺社・町家などの城下町建設、や交通路の整備など土木工事も盛んに行われましたし、大名は参勤交代が始まったことで江戸にも大規模な、華麗な屋敷を構えなければなりませんでした。

 

関ケ原以前から築城、城下町の整備は進んでいましたが、このブームで建築、土木用材としての木材の需要は膨れ上がりました。

諏訪高島城の築城は、日根野氏によって1590年代に行われました。その日根野氏は1601年(慶長6年)に転出し、戦国時代の領主だった諏訪氏が戻ってきます。

 

※「森林の江戸学 徳川の歴史再発見」徳川林政史研究所 東京堂出版 2012

※「日本人はどのように森をつくってきたのか」コンラッド・タットマン著 熊谷実訳 築地書館 1998

 

●火事・災害

 

江戸や地方都市が整備されて以降も木材需要は増え続けます。木造家屋が密集する都市が建設されたことで、庶民の家屋や商業地が繰り返し火災で焼かれていたからです。

また、自然災害も多い時期であり、水害、噴火、地震等、街を壊滅させるような大災害が相次いだ時代でもあります。

鬼頭宏は「環境先進国・江戸」でこう書いています。

「江戸時代は災害見本市のような時代だった。台風、高潮、洪水、干ばつ、落雷、降雹、大雪、季節異常といった気象災害、地震、津波、噴火などの地殻変動に伴う災害、疫病や農作物における病虫害のような生物学的災害など、記録のない年を探すのが難しいくらいに、毎年日本列島のどこかで発生していた」

 

なかでも地震は多く、江戸時代を通じて頻繁におきていました。江戸では特に前半の1628(寛永5年)~1649年(慶安2年)、1703年(元禄16年)の二つのピークで強い地震が発生し、大きな被害が起きています。そうした災害の復興にも木材は必需品でした。(「江戸の自然災害」)

 

有名な振袖火事と呼ばれる明暦大火は、1657年(明暦3年)江戸市中のほとんど、500の大名屋敷、779の旗本屋敷、350の寺社、町屋が密集する400のブロックを焼き、10万人の死者が出たといいます。また江戸城天守閣も焼失し、保科正之が天守閣の債権を断念し、江戸市中の復興を優先したというエピソードを生みましたが、それほど都市の再建にかかる木材が必要だったということでしょう。タットマンの著書では庶民の家の半分を再建するだけでも原生林2500ヘクタールの面積が必要だと試算しています。

 

一方大都市江戸の災害は、地方にとっての商売のチャンスです。

明暦大火の翌1658年(元治元年)に江戸の商人が、南部藩に2500両の運上金を支払って、下北半島のヒノキを伐り出した記録が残っているそうです。

(「村からみた日本史」)

●森林荒廃の時代

 

人口増加、都市の建設、築城、巨大寺院、さらに大火、大災害は復興のための木材需要を生み、各地で森林が伐採されています。そのため、全国各地の山は禿山、草山と化していました。

 

例えば檜の良材を産出する木曽の山は、秀吉の方広寺大仏殿や伏見城造営に、徳川家康と尾張藩のために江戸城、駿府城、名古屋城、東照宮、増上寺の造営に、木曽ヒノキの材木と屋根板材を供出し、搬出可能地は「尽き山」になってしまったそうです。(「森林の江戸学」)

木曽の山はその後、木を伐り出すことを禁止する「留め山」になりました。(1665年、寛文5年)

木材需要は別の地域に向かったに違いありません。

 

また1590年代の初頭に加賀藩が金沢城を、会津では加藤氏が会津若松城をつくり、1590年代の後から1600年代には仙台で伊達市が青葉城、熊本で加藤清正が熊本城、秋田佐竹氏が久保田城を、1610年に津軽氏が弘前城とその城下町を建設しました。こうした各藩の城塞建造は、周辺地域の森林利用によって近隣の山を裸にしています。

 

タットマンは、諏訪の隣、松本の様子を描いています。松本藩は、山に囲まれていますが、材木を流す大河もないため、それほど外部に供給できたわけではありません。家康の要請に対して松本藩は屋根葺き用の材料を供給した程度で、むしろ藩内需要に限定され、ほとんどの用材を藩自身の城や町の建設に使用していました。

1600年ころには松本のすぐ近くの東側の山林はすでに伐り尽くされて、築城用の木材が採れなくなっていた。そこで西側の山林から木材を調達することになった」

松本の東側の山林とは、美ヶ原高原の山塊のことです。

1590年代に建設された松本城の本丸は比較的小さなものだが、それでも(中略)立木に換算すると1万石に相当する木材が必要と推定されている」

「城全体で使われた木材は立木で3万石にもなるらしい」

「松本の城下町では、1600年までに約1200戸の住居が建設され、72000石の加工木材が消費されたという」

「住居以外の建物や橋梁に使われた木材、さらには足場木材などの建設用資材まで含めると、城郭と城下町の建設に少なくとも20万石の半加工木材が必要であったとされる。これは立木にすると40万石に相当し、周辺の山林を裸にしてしまうほどの量であった」

 

Photo

 

【美ヶ原から松本盆地を望む:盆地の中央付近に松本の中心市街地があります】

 

 

松本藩でのその後の森林枯渇の経緯をタットマンは、以下のように整理しています。

 

松本藩は材木を調達するため、最初のうちは山間地から木材による税の支払いを認めていました。しかし材木が少なくなり、伐り出しのコストが高くなると、村々は木材よりも簡単に入手できる米、大豆、銅貨、銀などで支払うようになります。

藩は木材が手に入らなくなると労働者を雇って伐り出しを行うやり方に変更しました。しかし、労賃の支払いと木材の販売収入との収支ずれ、資金繰りに苦しみ、結局木材商人を呼んで伐木とその産物の販売をゆだねることにします。その見返りとして商人は運上(税)を支払う仕組みになりました。

 

地元の商人が請負の伐採事業を始めるのは1617年頃、1620年代には江戸や大阪から大きな木材商人も参加しています。地元と都市の商人による伐り出しは約20年間続きますが、1640年代に都市の商人が撤退します。撤退の理由は森林が枯渇して低質材の生産コストが上昇し、事業利益が得られなくなったからでした。

 

その当時の全国の森林事情、森林の荒廃は、各地を旅行して歩いた文人たちの手によって書き残されています。(「草地と日本人」)

 

「新田開発が行われるような集落に比較的近い里山だけでなく、城郭や武家屋敷の用材となる大径木を産出する奥山・深山まで、江戸時代初期においては森林が伐採された範囲は非常に広かったのである。荒廃した山の状態は、岡山藩の熊沢蕃山が「天下の山林十に八は尽く」と書いた」

 

増えた人口はさらに森林荒廃の原因を増やします。住居用木材だけでなく、瓦の焼成、食器に使う陶器の窯、海に近いところでは製塩にも炭が使われ、木地師の作る椀などにも木材が使われます。煮炊きをするための薪炭利用も人口増加によって木材需要がさらに増えました。

 

 

※「草地と日本人 日本列島草原1万年の旅」須賀 丈他著 築地書館 2012

 

 

森林が伐採された山は、草山、柴山となっていました。草山は、食べ物の生産に直結します。昔から、田畑の肥料を供給するため、草山から採る刈敷が利用されていましたが、それがさらに加速するからです。

美作国の津山藩では、1674年~75年(延宝23年)に領内山々の入会山でこんな事態も生じました。草肥を採るために邪魔な立ち木が切られてしまったのです。

 

「入会場に立木があっては、芝草が生い立たないために肥やしに差し支えがあると申して、百姓たちは諸山森々蒼々と生い茂っていた立木を一時に伐りとり(中略)一朝にして数百年来の大木・小木伐り払い、禿山・木樹皆無山にしてしまった。(岡山県史)」

常陸でも陸奥でも同じことが記録されているそうです。森は、農業生産にとっては邪魔もの、つまり経済に負けて伐られまくったのです。

(「草山の語る近世」)

 

 

※「草山の語る近世」(日本史リブレット) 水本 邦彦著  山川出版社2003

 

 

●高島藩の森林事情

さて高島藩では、どうだったのでしょうか。

松本と諏訪は、美ヶ原の高原を挟んで目と鼻の先です。諏訪でも山の木材供給は同じ状況だったと考えていいでしょう。

 

諏訪、茅野の高島藩領は、美ヶ原、霧が峰、蓼科山、八ヶ岳、入笠山等の山に囲まれていますが、どこも1500mから2000m以下くらいの高原状の地形が多く、人が利用できそうにないのは、八ヶ岳の岩稜くらいでしょう。

 

霧ヶ峰は、平安時代末に八島ヶ原湿原東部で諏訪大社下社の神事の一つ御射山祭が行われるようになりましたし、この祭では火入れを伴う狩猟が行われたようでもあります。花粉分析によれば草原化が始まったのは鎌倉時代以降のことです。

 

森は切り開かれて茅場(茅葺屋根の材料)になっていましたし、御射山祭では地元諏訪や信濃・甲斐の武士、全国各地の鎌倉幕府の御家人や武将が集まり神事の後に武技を競ったという歴史もあります。

祭と同時に行われた御狩は、八ヶ岳西麓の原山の神野に数百騎の馬を並べて、狩をしたと記録されていたところから、麓には広大な草原が広がっていただろうと推測されています。(「草地と日本人」)

 

江戸時代には、霧ヶ峰は上桑原山と名づけられて、麓の村の入会地になり、地元の村と他の入会村の山争いも頻発していました。麓はもちろん、高原地帯にはほとんど森は残っていなかったとみていいでしょう。

 

 

※「霧が峰高原の山ろく集落による高原資源の利用と生業の変遷―近世から近代を対象に―」 浦山佳恵 長野県環境保全研究所研究報告 2007

 

 

高島藩は、領内に御林、家中林、村林、百姓林のような区分で林野をもっていました。そのうち藩が直接経営し、農民の立ち入りを禁止または制限している御林が成立したいきさつを、「諏訪市史」は

「おそらく近世初期の築城や城下町建設などによる木材需要の激増、新田開発にともなう林野の減少という状況のなかで」成立した

と推測しています。

御林は諏訪湖岸や霧ヶ峰の麓の上桑原村、下桑原村の城下からすぐ近くに合計7か所、八ヶ岳山麓に15ヶ所(天明年間)にすぎません。

茅野市史、諏訪市史には、1794年(寛政6年)から1803年(文化元年)にかけて私有林の調査が行われた林検地の記録があります。それを見ると、諏訪市域では6か村で、茅野市域37ヶ村でそれぞれの林が10005000【坪】程度でしかありませんし、1万坪を越える林は3か所しか見当たりません。せいぜい数百メートル四方の土地です。

 

 

農耕社会では人口が増加すると食糧生産のために森林を伐採して農地が開発され、同時に燃料や飼料、肥料用の落葉落枝(おもに堆肥用)や下草、若芽や若葉など(刈敷)の採取により周囲の森林が収奪されます。そのため森林面積が減少し、残った森林の質が低下し、さらに都市の発達は建築用材の伐採圧力を強め、人口の増加に比例して森林の劣化は一段と進むということになります。

 

というわけで次は草山の農業事情についてです。

 

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