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2018年4月12日 (木)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証5~徳川綱吉時代生類憐みの令は史上最大の悪政というのはホント?ウソでした!

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オオカミ復活論入門

誰でもわかるオオカミ復活を知るためのの理論、歴史、文化、思想

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オオカミ復活論入門

【号外】「諏訪高島藩で何がおきたか」再検証5~徳川綱吉時代生類憐みの令は史上最大の悪政というのはホント?ウソでした!

2018412

号外No.7

 By Asakura

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号外のみ、ブログ「森とシカtoオオカミ」で公開します。

 

 

江戸時代の狼襲撃事件の背景として、「徳川綱吉」と「生類憐みの令」は避けて通れません。

ちょうど綱吉の治世、元禄時代を中心に大きな狼事件が起きていて、確かに関係があると思われることもありますし、歴史研究者や著者が狼事件との関連に言及しているからです。

 

たとえば、栗栖健は「日本人とオオカミ」の中で

「いわゆる『生類憐みの令』は、綱吉の迷信によって、人命より動物を優先させさえした。『徳川実記』に出ている令の内容と「実記」にある他の時代の記録から、皮肉にも17世紀末ごろ幕府が記録しなければならないほどの狼害が発生していたことがわかる」

と書いていますし、村上一馬も「東北学062015)」に収録された論考で

「飛びかかってきた狼をたたき殺しても半年間の村預けにされている。・・・元禄から宝永年間は徳川綱吉による『生類憐みの令』が断行され、・・・たとえ人や馬を害する狼であっても、丁寧に扱うよう指示されていた」「人々は過酷な環境に置かれていた」と事件の背景を推測しています。

 

 

●従来の徳川綱吉の評価

このような見方は従来の徳川綱吉の評価「綱吉は暗君」、「生類憐みの令」は悪法という定説を踏襲したものです。

今まで、「生類憐みの令」と徳川綱吉は、

「史上最大の悪政の一つ」

「世界の封建制史上でも最大の悪法」

「犬を守るために人間を殺した支配者」「迷信を信じやすい支配者が狂ったように犬を溺愛した」

あるいは「精神異常をきたした結果」とまで言われ、綱吉といえば別名「犬公方」と呼ばれているように、「人間よりも犬を大切にした最低の将軍」という評価は、中学高校の歴史教科書にさえ反映していますから、誰もが知っている定説ということになります。栗栖健も村上一馬もこの説をまったく疑っていないようです。

 

 

●新しい綱吉像

しかし、「生類憐みの令」に関する研究を調べてみると、その事実関係はそう単純ではなく、その歴史的評価は見直しが積極的に進められ、新しい見解が提示されつつあります。

 

たとえば、

※「生類憐みの政治 元禄のフォークロア」塚本学 平凡社 1993年(原著1983年)

※「黄門さまと犬公方」山室恭子 文芸春秋文春新書 1998

※「逆説の日本史13近世展開編」井沢元彦 小学館 2006

※「犬将軍 綱吉は名君か暴君か」ベアトリス・Mボダルト=ベイリー著 早川朝子訳 2015

 

などは、「生類憐み政策」を見直し、綱吉の意図を読み解いています。人物評価についても塚本を除いては評価を逆転させています。

 

塚本は、1983年に書いた「生類憐みの政治」で、「生類憐み政策」の意図を分析し、当時の社会状況への対策だったと言って、学会で初めて、「政策」として検討しました。しかし、綱吉本人の人物像については「政治家としての資質には低い評価を与えねばなるまい」「日本社会の文明化を推進した理想主義者ではあるが小心者の専制君主というのが、私の綱吉像である」と手厳しい評価を下しています。(「徳川綱吉」塚本学著)

その点を井沢は、まだ旧来の常識にとらわれた見方だと批判的に書いています。

 

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逆に、綱吉を名君と絶賛しているのが、山室、井沢、ボダルト=ベイリーです。歴史上の人物でいえば、元禄時代にオランダ商館の医師として来日し、綱吉にも面会したドイツ人ケンペルも綱吉に高評価を与えています。

「現在統治している国君綱吉は、英邁な君主である。彼は父祖伝来の美徳を受け継ぎ、法に厳格であるという以外の点では憐み深い君主である。幼少時より儒教の教えを受けて来た彼は、臣民と国土の気風に相応しい方法で国の舵取りをしている」(「犬将軍」日本語版序文より)

 

それなのになぜ、あそこまでひどいことを言われなければならないのでしょうか。

前記のような悪評は、すべて新井白石の「折たく柴の記」に由来すると山室が調べ上げました。綱吉の次の将軍家宣の側近であった白石は、わずか4年で終わった6代将軍家宣の治世の記憶を後世に残そうと粉飾するため前代の綱吉の悪口を書き残し、それを百数十年後の「徳川実記」が採用し、そして江戸期明治期の歴史家だれもがその徳川の正史ともいえる「実記」のネタをさらに盛って、現代の教科書にまで使われるようになったというのがその真相です。

 

 

●価値観の大転換

山室、井沢、ボダルト=ベイリーらが、綱吉を高く評価する理由は、「生類憐みの令」の、後世に与えた影響の大きさです。日本の社会そのものを根底から変えた政策でした。

井沢元彦の文章が最も端的にこのことを理解させてくれます。

「世の中のことはすべて武力で解決すればいい。武力でやるのだから人が死ぬのは当然だ」という「常識」が、江戸初期には明らかにあった。ところが江戸中期以降は「すべて物事は穏やかに法と秩序にのっとって解決すべきだ。そして人命は尊重されるべきである」へと「大転換」が起こった。」

塚本もその変化は認めながら、それが綱吉本人の意思や実績ではないと考えるのです。

 

その劇的な変化を山室恭子は、古文献を丁寧に読み解いて「生類憐みの令」に肉薄し、読みやすい現代語に訳しました。

「黄門様と犬公方」は綱吉と「生類憐み政策」を理解するには必読です。

 

「この珍奇なる政策のねらいは、戦国以来の殺伐たる『夷狄の風俗のごとき』現状を変革するために、人々の『仁心』を涵養することにあった」

その証拠として、綱吉が政策の目的を政治パートナーである側用人柳沢吉保に説明するために送った「教戒状」(『徳川実記』)を挙げます。

「仏教と儒学は慈悲をもっぱらとし仁愛をもとめ、善を勧め悪を懲らしめること、まことに車の両輪である。しかるに現在、仏教を学ぶ者は出家して世間を離れてしまうので、世の中の秩序は乱れ切ってしまっている。また儒学を学ぶ者は禽獣を平気で食して、万物の命を害することを厭わないので、世の中は不仁で夷狄の風俗のようになってしまっている。まことに憂うべきだ。儒仏を学ぶ者はその根本を見失ってはならない」

 

山室は綱吉の心情を推し量ります。「こちこちの漢文を読みほぐしていくと、綱吉が何を考えていたのか、どんな筋道をたどって生類憐み政策へ、「仁心」の鼓吹へと導かれていったのかが、うっすら見えてくる。禽獣を食用にし「万物の生を害するを厭は」ないことが原因で、「世まさにことごとく不仁にして夷狄の風俗の如きに至る」という結果になってしまった。というのが彼の因果関係の認識なのである。だから、とにかく「万物の生を害する」ことを止めさせなければならない。」

 

百数十年後に書かれた『徳川実記』も白石の偽証を採用する一方で、「かの殺伐の風習を改めて、好生の御徳を遍く示し給はん盛意より出し」と生類憐みの令の意図を説明しています。「かの殺伐の風習」とは、「揆乱反正をさることいまだ遠からず。殺伐斬獲の余風なおやまず。ややもすれば闘争して、人を毀疵することなど絶えず」、やたら刀を振り回す戦国以来の遺風のこと」であり、その悪風を矯正することを目指したものだといいます。

 

 

またボダルト=ベイリーは、綱吉の目的が「価値観の転換」だったと書いています。

「暴力を規制する法令は綱吉の治世の前から発布されていたが、立法者と執行者の双方がそのような暴力の根幹に横たわる価値観を共有していたため、ほとんど何の変化も起きなかった。それには、根本的に異なった価値観と、これまでに確立された方式を打ち破り、非暴力を強制する覚悟をもった支配者を必要とした。」

 

綱吉が卓越した君主であり、理想に燃えて価値観を変革しようとした努力は、まさに荒々しい戦国時代から平和な世の中へと移行する日本の歴史が求めたことだったのですが、当時の庶民、下級武士には理解されず、後世に長く続く悪評を残す結果になりました。しかし、戦国以来の価値観との闘争は無駄ではありませんでした。

 

 

●劇的な社会の変化

こうした政策を25年続けた結果、

「綱吉の基本政策である「生類憐みの令」以前と以後では社会に劇的な変化があったこと、それが綱吉の功績である。」

と井沢元彦が書いているように、社会と人々の価値観に変化が起きて、それが現代の日本につながっているというわけです。

 

山室はその価値観の変化を、黄門様の体験や新井白石の父親の体験から読み取っています。

黄門様徳川光圀公は、若い頃に友人に煽られ、臆病者と嘲られて、休憩していた寺の床下に寝ていた非人を、何の理由もなく斬り殺したことを書き残しています。

また、新井白石の父は、自分の愛刀を息子に与えた際に、その刀は、昔隣人が若党を成敗するのに加勢して、その若党を斬り捨てたものだから大切にしろよと、その刀の来歴を付け加えて渡したそうです。

そうした事件がおきたのは3代将軍家光の頃のことでした。その頃は、武士が度胸試しに人を殺したり、口喧嘩の果てに主人が若党を手討ちにするようなことが当たり前におこなわれていましたが、白石がそれを書き残した8代将軍吉宗の治世には、そんな風潮はきれいになくなっていました。

 

町をうろつく犬も刀の試し斬りの材料でしかなく、郊外の村では藩や幕府の鷹のエサとして供出させられていた存在でしたし、武士も町人も飼い犬でも、野良犬でもかまわず目に付き次第捕まえて食べてしまうような世の中でした。(「生類をめぐる政治」)

 

 

●犬は殺されなくなった

綱吉が嫌われ、後世にまで悪評を残すことになったのは、白石の怨念に加えて、価値観の変化を強制された武士、庶民が反発し、あることないこと悪い風評を流し続けたからです。その悪評を真に受けた後世の歴史家たちも綱吉をこき下ろしてきました。

しかし価値観は確かに変わりました。人をむやみに殺すことが悪いことだとされ、「生類憐み」の時代が終わった後も、犬は再び試し斬りの素材に戻ることをはありませんでした。

綱吉よりも少し勇ましい吉宗の時代になっても、集落に迷い込んできた犬は、殺さずに、「山に放す」よう幕府から指導されるようにさえなりました。(「伊勢屋稲荷に犬の糞」)

 

 

綱吉の治世の後半では、大地震や富士山噴火に見舞われ、あまり将軍として幸福な終わりを迎えたわけではありませんが、日本のあり様を大変革した政治家として、井沢元彦は聖徳太子に比肩するという評価を与えていますし、ボダルト=ベイリーは、15代の将軍の中でも最も優れた将軍だったとNHKの特集番組で語っています。

 

BS歴史館 : 徳川綱吉 / 犬公方の真実

http://www.dailymotion.com/video/x2jjyvx

 

 

 

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オオカミ復活論入門

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 発行人:オオカミと森の研究所 朝倉 裕

 

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