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2018年4月14日 (土)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証6~生類憐みの令は何十万の人を苦しめた悪法だった?これもウソでした!

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【諏訪高島藩で何があったか】再検証6~生類憐みの令は何十万の人を苦しめた悪法だった?これもウソでした!

2018414

号外No.8

 By Asakura

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前回は、徳川綱吉の功績は「価値観の大転換」という結論でしたが、では、その政策の柱だった「生類憐みの令」は過酷な厳罰主義で人々の精神を強引に変えていった法令だったのでしょうか。

 

「人命より動物を優先させさえした」

「人々は過酷な環境に置かれていた」

と栗栖も村上も生類憐みの令が厳罰を伴ったということを前提にしています。

違反者をびしびしとしょっ引いて牢にぶちこんだり、首をはねたりした恐怖政治で、新井白石が「折りたく柴の記」に書いているように何十万もの人が苦しんだ悪政だったのでしょうか。

どうやら違うようです。具体的に見ていきましょう。

 

●何のために、いつ始まったのか

「生類憐みの令」を昭和になって最初に再評価した塚本学は、その開始時期について、こう書いています。

「生類憐み令なるものは、綱吉個人の恣意によって、あるとき突然に始まったというものではないから、始期を特定することはむずかしい」

諸国鉄砲改め、犬に関する愛護の令が1685年(貞享2年)、捨て子捨て牛馬の禁令が1687年(貞享4年)、塚本はこのあたりを一連の生類憐み政策の開始と考えています。

 

塚本は「この政策の意図したところは人間を含む一切の生類を幕府の庇護・管理下に置こうとするものであると同時に、諸国鉄砲改め令も生類憐み政策の一環であり、徳川政権による人民武装解除策という意味をもった」と、ちょっとおどろおどろしい陰謀論を展開していますが、これには山室恭子は批判的です。

陰謀論ではなく、正面から綱吉の政策を見たらまったく違う側面が姿を現したというのです。

 

 

●憐み政策の構成

「生類憐み政策」の展開状況を、整理してみましょう。

 

塚本「生類をめぐる政治」では、上記のように、鉄砲改めを「生類憐み政策」に加えています。山室が「黄門様と犬公方」で塚本の説を整理していますので、それを拝借します。

 

**************

塚本氏は生類憐みの令を「将軍個人の嗜好の問題ではなく、当時代の社会状況への一つの対策」として読み解こうとされ、発令者側の意図として、以下の諸点を挙げられた。

・鉄砲の抑制―当時、農作物を荒らす害獣を追い払うため、村々にはかなり多数の鉄砲が存在した。幕府は生類憐みを機に、鉄砲の使用を登録制にして統制しようとした。すなわち「生類憐み政策」は徳川政権による人民武装解除策という意味をもった。

・カブキモノの取り締まり――当時、都市では犬を食らうという習俗が、カブキモノすなわち無頼な連中のあいだに行われていた。幕府はそれを取り締まるために、犬の保護をうたった。

・野犬公害への対策—―当時、江戸の町に多数の犬が横行し、町民の生活にトラブルを発生させていた。そこで中野に犬の収容所をつくって対処した。

・宿場の馬の確保――当時、交通網の基礎をなす宿駅制度に必要な馬は、農民の飼育にゆだねられていた。幕府は馬の保護を命ずることで、この制度を維持しようとした。

**************

 

塚本のこの観方は、政権にとっての危機管理の意図という観点で貫かれています。

これに対して、根崎光男(「生類憐みの世界」)は、塚本の鉄砲管理が武装解除とする見方、大名に対する統制になったという考え方には概ね同意しているようですが、山室は法令の隠された意図を探ろうとすること自体に違和感を感じると述べています。

「綱吉は痛くもない腹を探られているのではないか」というのです。

 

 

※「生類憐みの世界」根崎光男 同成社江戸時代史叢書 2006

 

 

生類憐みの内容、構成としては対象動物から見ると犬、馬、鳥があり、捨て子病人の保護、囚人の健康状態への配慮など広範囲にわたり、ボダルト=ベイリーは、世界で始めての福祉政策だとまで語っています。

どちらの見方が正しいのでしょうか。私は、読み比べてみて、山室説に軍配を上げました。その山室説をご紹介します。

 

 

●山室説「五月雨式発令」

塚本をやや批判的にみている山室は、塚本同様「生類憐み関連法令」の第一号を1685年(貞享2年)の「犬猫が将軍の行列中につないでおく必要はないぞ」と触れた通達と見ています。

ただし、「生類憐みの令」という原理原則をうたった一本の法律がある日どすんと発布されたというわけではなく、綱吉の大きな意図を持った、犬猫をつなぐな、馬の筋を延ばすな、といった細かな具体的指示、お触れ、町触れが25年に渡って五月雨式に出されてきた指示の総体を指して呼んでいるもので、現場の状況にあわせ、あるいは政策の転換にともなって、絶えずアメーバのように変形しているものだと指摘しています。

 

 

●繰り返されるレジスタンス説

五月雨式指示というのも、あまりにも具体的な政権側の指示に対して、町人、下級武士のレジスタンスが頻発し、その対応としてお触れが出され、エスカレートしていった町人たちと政権の丁々発止の結果がこうした法令の塊だったのではないか、というのが山室の指摘です。

たとえば、

 

・元禄7年「近頃あちこちで傷ついた犬を見かける。いっそう気を配って、犬を傷つける者があったら決して見逃さずに番所へ引っ立てよ」(江戸町触集成2078号)という触れが出される。

・この指示を嗤うかのように、これ見よがしに道端に傷つけられた犬が転がる

・翌月再び「今後は犬を傷つけた者を見逃したら、その町中全員を罰するぞ」(徳川実記522日条)と威嚇の度合いを強める

 

応酬は続きます。

・翌閏53日にはこんな触れが出ました。

「町中で「犬わけ水」と桶やひしゃくに書いたり、あるいは犬という字を紋所にした揃いの羽織を番人に着せて警備させていると聞いた。桶やひしゃくに書いたり、そろいの羽織を着せたりすることは、即刻やめよ。水を準備したり番人を置いたりすることも、目立たないように行え。ただし、犬は粗末にせずに心を配っていたわってやるのだぞ。(「江戸町触れ集成」3094号)」

 

「なかなか天晴な町人たちである。犬どうしがケンカした時にはケガをさせぬよう水でもかけて引き分けよ」とお触れが出れば、「さっそく墨くろぐろと「犬わけ水」の桶やひしゃくを押し立て、「犬」印の羽織まで特別に誂えてしまった。政権のきまじめに洒落をもってしたのである。

が、綱吉はそれをまともに受けて激怒します。

な、なんと度しがたき者どもじゃ、怒りがびりびり沸騰する。ふざけるな、「犬わけ水」も羽織も即刻やめさせろ。

「なぜだ。なぜに、せっかくの生類憐みの趣旨が通じない。」

 

子どものケンカのようで、山室の筆にかかると漫画のように見えてきます。山室は江戸の町人に喝采を送りつつ、綱吉に同情しています。

 

こんな政権と庶民のやりとりが、20年近くの間に出された犬に関する33の法令、お触れの積み重ねになりました。

虐げられたまま、黙って耐えている庶民なんてイメージではありません。時は元禄、御政道に楯突いた赤穂浪士を囃し立て、大石内蔵助を「大星由良助」と呼び名を変えて芝居に仕立ててしまった時代ですから、このほうが納得できます。

 

綱吉の善意、価値観を変えようという意気込みは空回りします。

「始まりは、まぎれもなく善意であった。しかし、権力を以て精神改造を強要するなんて、される側にしてみれば鬱陶しいことこのうえない。必然、抵抗が始まる。」

喧嘩っ早いと後世にも伝わる江戸っ子が、黙ってお上に従うわけがなかったのです。

ただ、こうしてレジスタンスを繰り返したものの、結局は25年も触れを出し続けた綱吉が勝って、ついに世の中は変わったのですね。

 

 

Photo

BS歴史館に出てくる再現映像で、これ自体後世のふくらんだお犬様のイメージです。でも犬わけ水のエピソードを知ったあとでこの映像を見ると、これも江戸町民の洒落で、実際にあってもおかしくはないかと思ってしまいます。法被を仕立てて、引き綱を用意して、町内全員で平伏してみせるなんてパフォーマンスだったかもしれません】

 

ここで狼事件にとって重要な通達が出されています。

元禄8年でした。

 

一、 熊・猪・狼のたぐいは、たとえ人を襲わなくても、家畜に害をなす恐れがあれば追い払え。その際、はずみで殺してしまっても苦しゅうないぞ。

一、 犬・猫は、鳥獣を傷つけたり、鳥獣を傷つけたり、仲間どうし喰い合ったりしたら、怪我をさせぬように引き分けよ

 

綱吉政権の善意、細かな指示を洒落で返してしまう江戸の町人のいる時代、地方の官吏、農民だって・・・、犬はだめでも狼ならいいんだな・・・

と考えたかどうか・・・

 

 

●法令の本数

「生類憐みの令」は、一本の原理原則をもった法令ではないのですが、ではどのような内容のものがどれだけ出されていたのでしょう。ここでも山室の本から借用します。

彼女が丁寧に様々な資料から拾い出した関連の指示を対象動物ごとに分類しているのですが、それがこの表です。

 

Photo_2

【「黄門様と犬公方」より】

 

生類憐みの令といえば、「お犬様」のはずなのですが、犬に関する法令はほぼ元禄10年で終了してしまっていました。元禄7年が上記の犬分け水やらの掛け合い漫才のような騒動の年で、これがピーク、そして8年には大規模な犬小屋を中野に作って江戸中の犬をすべてそこに収容してしまおうとします。

山室は「犬を殺すなという法を犯す『愚民』が多かったので民間で飼っている犬を中野に集めてしまう」と柳沢吉保の記録を紹介しています。

そして犬の騒ぎが終わり、犬関連の法令は収束した、ということになります。

 

 

●処罰の実際

前号で綱吉の悪評は新井白石の書き残した「折たく柴の記」が大元だと書きましたが、白石が残した地雷は、江戸期後半から現代までいまも誘爆が続いています。「罪をこうぶれるもの何十万という数をしらず。当時もお沙汰いまだ決せずして獄中に死したるものの屍を塩に漬けしも9人まであり。いまだ死せざるもの、またその数多し」とさんざんな事実無根の悪評を書き残しているので、歴史に携わる人たちのなかでも不勉強な方はそれを未だに信じて風評被害を広げています。

 

実際のところ、山室が調べ上げた現在諸資料で知ることのできる処罰件数は、24年間で69件にすぎませんでした。半数は初期の3年間に集中し、罪人の顔ぶれも下級武士、将軍や大名に使える小姓、中間、足軽、辻番といった幕府の身内が46件で、町人は15件、百姓は6件にすぎません。

これはほとんど江戸の町で処罰されたものですが、罪人の大部分が下級武士で幕府は身内に厳しい態度を以て臨んだと考えられます。

しかも、それは幕府のお触れ、通達の禁をあえて侵してみせた確信犯のような事件です。「犬を殺した」から処罰されるというより、「お上にたてつくように、禁を侵して犬を殺した」から厳罰に処せられたものでした。

それでも死罪は13件にすぎず、うち2件を町中でお触れの高札を出しています。みせしめ効果を狙ったものと思われ、犬殺しによる重罪人が日々ぞくぞくと発生しているなら、このようなことは意味がなく、珍しいから触れだされたとみるべきだと山室は言います。

生類憐みの令によって断罪される者がきわめて稀で、悪質な場合に限られ、政権は罪人を出すのに消極的、他の罪状に比較して寛大だったと見るべきでしょう。

 

 

●地方への波及はあった?

「生類憐みの令」では、犬に絞っていえば、江戸の町犬が最大の課題だったので、地方への通達はもちろんありましたが、影響はあまり感じられません。

「大名のほとんどが自藩において、生類憐みの令の施行に関しては従うふりをしただけであった」(「犬将軍」)

塚本も「(貞享4年の幕令について)総括的な生類憐みの趣旨は、少なくもこの時点で、全国に将軍家の命令として伝えられ、その中で犬はやはり格別に注意すべきものであった。ただし、ここでは、とくに犬を損じたものへの厳罰の姿勢が示されているわけではない。全国法規としては、この時期、生類慈悲の心を説いたという以上の意味は、あまりなかったと思われる。」と書いています。

(「生類をめぐる政治」)

 

根崎の「生類憐みの世界」には、鉄砲の取り締まりに関して地方への伝達がどのように行われたかの事例が紹介されています。各藩の代表を集めて大目付が通達し、地方への徹底を図り、それが藩側の資料にも残されていますので、幕府の意思は各藩政府にまでは徹底していました。

 

元禄も終盤になって重大事件があり、これを塚本は制裁強化と解釈しています。(「生類をめぐる政治」)

「元禄1510月、幕臣橋本権之助が犬を殺して死罪に処せられたことをつげた幕法(正宝事録994)は、加賀藩、会津藩でも一統に触れられ、藤堂家伊賀上野城代の日記、鸚鵡籠中記等にも記録される。」

この事件について

「犬殺傷者への極刑が、広く公示されるという点では、この時期ごろから、犬についての制裁は、また一段と強化されたわけである。」

と書いているのですが、山室の調べた確認できる死罪は25年を通じて13件にすぎないのですから、これも地方への見せしめ効果を狙ったものと考えてよいのではないでしょうか。

 

 

このように、「犬を保護せよ」という幕府方針は、各地方で浸透していたと思われますが、各藩が厳罰で臨んだかといえば、そんなことはなかったろうと推測できます。

地方の農民は「生類憐みの令」で、獣害に対処することもできず過酷な状況に置かれていた、というようなことはあるまい、と考えざるをえません。

 

 

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