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2018年4月18日 (水)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証7 犬の生活~「生類憐みの令」以前は食われ、試し斬りされていたのに、綱吉時代以後は?

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オオカミ復活論入門

 

「諏訪高島藩で何が起きたか」再検証7 犬の生活~「生類憐みの令」以前は食われ、試し斬りされていたのに、綱吉時代以後は?

 

2018418

号外No.9

 By Asakura

■■◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇■■

 

そろそろ「諏訪高島藩」の狼事件の再検証も結論に近づいてきたようですが、その前にもう一つ、当時の「犬の生活」について材料を集めておきたいと思います。

 

生類憐み政策は、犬が中心のように思われていますが、実際には馬も鳥も政策の対象になっていますし、綱吉は犬好きでもなく、飼育したという記録さえありません。ただ、綱吉時代の前後で、日本人の価値観が変わったのと同様、犬のポジションも大きく変わったようなのです。

狼事件に関わりのありそうな、当時の「犬の生活」をみていきましょう。

 

江戸時代初期、江戸の町の犬の数は、実数はわからないもののそれほど多くはありませんでした。

人が犬を食べていたこと、犬が鷹狩に使われる鷹の主要な餌になっていた影響で犬の繁殖にブレーキがかかっていたからです。

犬は人のいるところ、食べもののあるところに集まってくるので、人が集まり、食べものとねぐらが増えなければ犬の数も増えません。初期には江戸の人口も多くはありませんでした。

 

しかし、繁殖力は旺盛なので、人口が増えてくれば、犬の個体数も増えてきます。4代将軍家綱から5代将軍綱吉が登場するまでの時期は、全国的にみても都市での犬の増加が問題になり始めているようです。

岡山では延宝7年(1679年)に町方での犬飼いは禁止。犬が来たら追い払いなさい」広島では天和3年(1683年)「町々の野犬、殺すべし」とお触れが出ています。(「伊勢屋稲荷に犬の糞」)

 

 

●大名の飼い犬

 

将軍や大名は弓や銃による狩猟も行っていましたので、犬は狩猟目的で飼育され、大きく獰猛なものが特に好まれています。家康は1612年(慶長17年)の鹿狩りに備えて、56000人の弓鉄砲の者のほかに、670頭の大型猟犬を集めていました。

塚本によると、これらの獰猛な犬は、南蛮犬または唐犬と称されたグレイハウンド種であり、狩猟に使われるだけでなく、保有する大名の権威付けや競合相手に対して力を誇示するために利用されることにもなりました。

江戸の大名屋敷では一度に数百頭もの犬を抱え、飼育を担う中間たちが犬を引いて町中で庶民を脅かしている図も当時の屏風絵などに描かれています。

犬には生肉が与えられ、ますます獰猛になり、生まれてしまった不要な子犬は武家屋敷から塀の外に放り投げることで、手っ取り早く処分することが頻繁にあったようです。それが江戸の町の野良犬になりました。

(「犬将軍」)

国許でも、1761年(宝暦11年)末、信州上田藩の百姓一揆(上田騒動)の際に殿様秘蔵の唐犬4匹が山に放ったことがありました。一揆弾圧用に放したのではなく、領主の無用の出費などで唐犬の飼育が、百姓の怨みの的となっていたからでした。その後、しばらく山中で見かけられたということです。

 

●犬殺し

 

町中にいる野良犬は、武士に簡単に殺される存在でもあり、江戸の町では武士が新刀を試すために犬の試し斬りが横行していました。

 

「生類憐み」時代以前には、武士を勇猛に教育するためのステップとして、子供たちが人を殺す段階に進む前に、犬を相手に練習させていました。

ボダルト=ベイリーは「葉隠」からその例を引いています。

「葉隠」は、鍋島藩の武士であった山本常朝の覚書です。1700年(元禄13年)に主君鍋島光茂が死去し、文治を担う家臣にとってかわられた常朝は、彼が生きてきた社会を回想しています。その昔の社会では、殺すことは、若い武士の教育において重要な位置を占めています。父親は5歳の息子に犬を斬り殺させ、1314歳に達すればこれを犯罪人にまで広げて実践するのを慣例としていました。一度に十名以上を殺した青年は褒め称えられ、殺さないための言い訳は臆病とみなされる社会でした。

 

【食われる犬】

●食犬習慣

 

当時の人たちにとって、犬を食べるという習慣自体は異様なものではなく、17世紀には調理法も記された本が出版されていたほど、普通のことでした。

兵法家であった大道寺友山という人物は、彼が若かった1657年(明暦3年)明暦大火以前の江戸の町には犬が少なかったと回想しています。犬を見かければ武士も町人も関係なく、即座に打ち殺して賞味したものだ、というのです。

下々の食べ物として犬に勝るものはなく、冬などは鍋で体が温まったものだ、所有者の有無を問わず犬を捕まえて、これを仲間で食うと書かれています。

(「生類をめぐる政治」)

 

●鷹のエサ

 

綱吉以前は鷹狩が将軍、大名の楽しみの一つであり、ボダルト=ベイリーは、鷹狩を意のままに取り仕切る権利は家康以来将軍のもので、捕獲した最初の獲物を天皇や朝廷に献上することは自らの統治権を象徴する重要な儀式だ、と書いています。

 

飼育される鷹は主として犬の肉をエサとし、地元の農民が提供していました。飼犬は、当時の社会では一般的ではありませんでしたが、鷹の食用として犬飼育の例がありました。1651年(慶安4年)春、会津で領内の犬の総数を調査した例があります。

犬の総数2687匹、内鷹のエサになるべき犬428匹、鷹エサ用犬を生産しうるものとして雄犬182匹、雌犬363匹、エサ用育成過程の仔犬193匹、エサにならない悪犬1521匹という結果でした。

会津領は石高10万石、人口は慶安2年で郷村103626人、町方22582人でした。そこに2687匹の犬がいたという数字は参考になります。

綱吉はその鷹狩を縮小し、後半には廃止してしまいます。

 

 

【食う犬】

●凶暴な犬

 

犬に関わるお触れが最初に出たのは1685年(貞享2年)です。将軍の行列が通過する際に、犬や猫をつなぐ必要はないとするお触れでした。

そのお触れが出されたきっかけは、将軍の行列が通過するという通達を受けて、その地域を徘徊する犬が行列の従者を襲うのではないかと恐れ、犬を袋につめて川に沈めたという事件でした。

野良犬は、あまりにも凶暴であったため、つなぐだけでは十分に押さえつけることができなかったのです。このような状況は、老人、女、子どもなど自分で自分を守ることのできない者たちにも脅威になっていました。(「犬将軍」)

考古学者によれば、江戸時代日本人の身長が歴史上最小となるのに反して、江戸その他で出土する犬の骨から見る犬の体高は、逆にそれまでのどの時期よりも大きくなっています。大都会江戸に外来大型犬をはじめとする大量の犬が流れ込んできたことがこのような結果をもたらしたのでしょう。(「江戸時代人と動物」)

 

 

●犬の食い物

 

人が密集し、犬の食べものになるゴミも多かった都市では、犬も密度濃く棲息することができます。そのうえ犬は肉食獣由来ですので、当時は鳥獣だけでなく、埋葬された人の死体をしばしば食用としました。

また、ルイス・フロイスは、16世紀の堺で、捨て子を食いなれている犬について記述しています。生類憐みの時代、捨て子の運命は、しばしば野良犬ないし野犬の餌食でした。

井原西鶴「好色一代男」の主人公が慶安4年京六角堂に捨てた子は「犬も不思議に喰い残して」生長したものと設定されています。捨て子が犬の餌食にならずに何とか生き延びたことに対する驚きの表明は、通常は逆であったことを示すものでしょう。

(「生類憐みの政治」)

町に高密度で棲息する町の野犬は「食べものを求めて市内を放浪し、店頭に並んだ商品、食物を売り歩く行商人の商品、さらには庶民の家の中の、もろい障子の裏に蓄えられた糧食が、空腹の動物に容易に狙われた。子供たちは、腹を空かせて放浪する犬に襲われて殺された。ある記録によると、雇い主から放り出された病気の女中が、そのような空腹の犬の犠牲となった」とボダルト=ベイリーは書いています。

(「犬将軍」)

 

農村地帯では、犬は別の食べ物にもありつく可能性がありました。飼育できずに捨てられる牛や馬です。

1687年(貞享4年)病気等の馬を生きたまま捨てる行為を抑止するため、馬を捨てたものとその罪の重さを公表し、全国に公布しています。この頃、捨て馬禁令のお触れが何度も繰り返し出されているのは、禁令を犯す農民が絶えなかったからです。綱吉政権は、犬よりもむしろ捨て馬に関してのお触れを多く出し、厳しく取り締まろうとしています。

農村では、農耕や輸送に利用できる間は農民にとって馬は有用な動物であり、家族同然の扱いでしたが、病気や老廃の馬を飼育することは小規模な農業経営の農民にとって荷が重いものです。役に立たなくなった病馬や老馬を山野に放ってそのまま放置すれば、農民の負担は楽になるので、捨て馬がなくならなかったのです。

(「生類憐みの世界」)

 

【江戸から地方へ】

●生類憐みの時代 犬の行方

 

山室の「黄門様と犬公方」によれば、犬を殺すなというお触れに対して「愚民」があえて法を犯し、犬を傷つけたり、小賢しいレジスタンスを繰り返したことにいら立った幕府が、江戸中の犬を大きな犬小屋に入れてしまおうとしたことが、江戸近郊に犬小屋を作った動機でした。江戸の町中にいる犬はほとんど犬小屋に運び込んでしまったようですが、大名屋敷に飼われていた大量の獰猛な犬はどこへいったのでしょうか。

大名に対しては、領国へ送り返せ、という指令が出ていました。

 

会津藩では、1688年(元禄元年)に江戸から下された犬の飼育料に百姓が難渋したという記録がありますし、1695年(元禄8年)7月、加賀藩では、江戸屋敷から国元に送られた6頭の犬飼育を領民に命じました。同時にそのとき6頭を江戸から輸送中でしたが、同年12月、江戸の藩邸3ヶ所の犬数を調べたところ、241頭であったという話です。

尾張藩の武士の日記である「鸚鵡籠中記」には、1697年(元禄106月)、江戸屋敷に飼われていた40匹の犬を国元に送り、名古屋の町に放した、と書かれています。

こうして江戸には犬はいなくなったようですが、各藩には獰猛な犬があふれるようになったと考えてよいと思います。

(「生類憐みの政治」)

 

 

●村の犬と飼い犬

 

町や村の犬は、飼い主のいるものはほとんどなく、ほぼ無主の犬でした。

柳田国男は、明治期の自分の出身村の経験から、「村の犬というのが4,5匹は常にいたが、犬を飼っている家は一軒もなかった」と書いています。

特定の飼い主がなく、といって完全な野犬でもないものが、数多く村にはいました。(「生類憐みの政治」)

綱吉時代の1700年(元禄13年)、津藩藤堂家は、津城下の町犬の調査を命じています。それによれば、岩田、余慶、下部田、大部田という4地区について、

「町には飼い犬これなく、岩田に34匹、余慶町犬5匹、下部田犬19匹、大部田犬32匹、合わせて90匹、うち16匹、持ち主これあり。74匹、無主」

と報告されています。町に犬がいても、飼い主がある犬はわずかに16匹でした。江戸時代から明治までは、犬は町や村で勝手に生きている生き物でした。

(「犬のお伊勢参り」(仁科邦男)

 

●村の犬と狼の区別

 

その外側に広がる領域、今でいう里山や奥山に犬はいなかったのでしょうか。

塚本は「江戸時代人と動物」の中でこんなことを書いています。

「飼育犬と野良犬とのなお外側に、野犬という概念を設定してみたい。飼育状況からほぼ完全に逸脱した犬が、人の与える、ないし廃棄する以外の食糧を求めて生きる例は、十分考えられるからである。」

 

さらに外側には、オオカミがいたはずですが、柳田国男の「狼と犬の区別が、少なくとも我が邦ではまだ明瞭に境目が立っていない。」という記述を引用し、塚本自身も「一体ひとはどこで犬を狼と区別していたのであろうか。狼と家犬がかなり近縁の動物であって、野生化した犬が狼と誤認される例は、江戸時代にも近代にもあった。」と、オオカミとイヌの区別がされていないことを感じています。

 

さらに塚本は以下のような古い記録を探し出しています。

「元禄元年武州山口筋で「狼」が荒れ、4人が喰い殺され6人が負傷という事態にも鉄砲隊が出張したが、この記事での「狼」の字は、もとの記録では「山犬」と書いて改めてあり、同3年下総佐倉で「山犬」暴行につき同様の派遣記事もある。「山犬」が野犬で「狼」が狼かどうかは、当事者にもわからなかったろう。」

 

 

●綱吉以後の犬の生活

 

「伊勢屋稲荷に犬の糞」(仁科邦男)によれば、綱吉の死後、江戸の町にはふたたび犬が増え始めていました。そして8代将軍吉宗は、綱吉が廃止して以来行われていなかった鷹狩を再開します。

日本橋から5里以内は将軍家鷹場、さらにその外側5里までが御三家や大大名の鷹場です。

鷹狩の妨げになるため、鷹場の村では犬の放し飼いが禁じられ、「無主の犬はどこか遠くに捨てなさい」とお触れを出しています。捨てられることによって里犬の野犬化が始まったようです。

10代将軍家治の時代にも将軍家の鷹場では犬を飼うことが禁じられ、すべての犬は「どこか遠くへ捨てる」ことになりました。そして犬を殺してはいけない、「戻ればまた捨てなさい」というのが幕府の命令でした。

 

 

 

※「黄門様と犬公方」山室恭子 文春新書 1998

※「生類憐みの政治」塚本学 平凡社 1993

※「生類憐みの世界」根崎光男 同成社江戸時代史叢書23 2006

※「犬将軍 綱吉は名君か暴君か」ベアトリス・ボダルト=ベイリー 柏書房 2015

※「江戸時代人と動物」塚本学 日本エディタースクール出版部 1995

※「伊勢屋稲荷に犬の糞」仁科邦男 草思社 2016

 

 

ここまでが、「諏訪高島藩の狼事件」の解明に必要な時代背景です。

 

 

 

 

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