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2018年4月

2018年4月29日 (日)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証8-結論オオカミはこの周辺に出没せず、犬が野山に多数生息。事件の犯人は山犬だった

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オオカミ復活論入門

号外【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証8-結論オオカミはこの周辺に出没せず、犬が野山に多数生息。事件の犯人は山犬だった

2018429

号外No.10

 By Asakura

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もう300年もたってしまって、確かなことはわかりません。物証はなし、再調査もできず、文献は、これは「狼」の仕業だと言っています。現代の民俗学者も新聞記者も地方の歴史研究家もそれを信じて「オオカミが人を襲った」と断言しています。

しかし、その事件の動物の行動は現代のオオカミ研究で観察されている生身のオオカミの行動とはまったく異なります。違和感おおありです。

そこで真相はどこにある?という疑問を解くために、考えられるあらゆる状況証拠を集めてきました。

 

今までこの事件を書いた人たちは文献の文言どおりに解釈しています。

たとえば

 

千葉徳爾は諏訪藩御用部屋日記から元禄15年(1702年)の記録として、狼が十数人の女子どもを害したことを書いています。(茅野市史に引用されている記録は元禄10年になっていました。どちらが正しいのかは不明です)

藤森栄一は信州高島藩旧誌からの引用で同じ年の事件記録を探し出しました。その記録を書き記した文章に、「元禄155月から6月にいたる2ヶ月間、突発的に物凄い狼の跳梁があったのである」と書いています。この記録も含めて栗栖健は「日本人とオオカミ」の中で、『神から凶獣へ』というおどろおどろしいタイトルの章を設けたのです。

「絶滅した日本のオオカミ」を書いたブレット・ウォーカーは千葉の説を引用してそのまま使っていますし、平岩米吉も藤森栄一の掘り出した日記を使って、狼による事件の記録としています。

このいくつもの書籍は、同じ材料を繰り返し使って、日本ではオオカミが突然理由のわからない荒れ方で人を傷つけるというイメージを増幅、定着させてしまいました。

 

それ対して、当「オオカミと森の研究所(仮)」が到達した推理は、やっぱりこの事件の犯人は犬だろうなあ、ということです。

「当時オオカミはこの周辺に出没せず、犬が野山に多数生息する条件がそろっていた。この事件の犯人は山犬、つまり郊外に棲息する野犬だった」

という結論をだしました。

その推論過程をお話ししましょう。

 

 

○事件発生

この事件の時期を、西暦に換算してみましょう。(事件は元禄15年のものとします)

 

元禄15428日、最初の馬への襲撃があり、狼事件が始まります。

最初に人が襲われた日付は、元禄1559日。56月と十数人の少年少女が襲われ、死傷しました。6月に入り、次々にオオカミが打ち留められ、622日に最後の襲撃があり、同日別の場所で1頭のオオカミが打ち留められ、合計で8頭のオオカミを猟師が打ち留めて襲撃は終息しました。

 

元禄15428日 はグレゴリオ暦1702524日。事件が収束した元禄15622日は、グレゴリオ暦1702716日です。

 

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2018年4月18日 (水)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証7 犬の生活~「生類憐みの令」以前は食われ、試し斬りされていたのに、綱吉時代以後は?

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「諏訪高島藩で何が起きたか」再検証7 犬の生活~「生類憐みの令」以前は食われ、試し斬りされていたのに、綱吉時代以後は?

 

2018418

号外No.9

 By Asakura

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そろそろ「諏訪高島藩」の狼事件の再検証も結論に近づいてきたようですが、その前にもう一つ、当時の「犬の生活」について材料を集めておきたいと思います。

 

生類憐み政策は、犬が中心のように思われていますが、実際には馬も鳥も政策の対象になっていますし、綱吉は犬好きでもなく、飼育したという記録さえありません。ただ、綱吉時代の前後で、日本人の価値観が変わったのと同様、犬のポジションも大きく変わったようなのです。

狼事件に関わりのありそうな、当時の「犬の生活」をみていきましょう。

 

江戸時代初期、江戸の町の犬の数は、実数はわからないもののそれほど多くはありませんでした。

人が犬を食べていたこと、犬が鷹狩に使われる鷹の主要な餌になっていた影響で犬の繁殖にブレーキがかかっていたからです。

犬は人のいるところ、食べもののあるところに集まってくるので、人が集まり、食べものとねぐらが増えなければ犬の数も増えません。初期には江戸の人口も多くはありませんでした。

 

しかし、繁殖力は旺盛なので、人口が増えてくれば、犬の個体数も増えてきます。4代将軍家綱から5代将軍綱吉が登場するまでの時期は、全国的にみても都市での犬の増加が問題になり始めているようです。

岡山では延宝7年(1679年)に町方での犬飼いは禁止。犬が来たら追い払いなさい」広島では天和3年(1683年)「町々の野犬、殺すべし」とお触れが出ています。(「伊勢屋稲荷に犬の糞」)

 

 

●大名の飼い犬

 

将軍や大名は弓や銃による狩猟も行っていましたので、犬は狩猟目的で飼育され、大きく獰猛なものが特に好まれています。家康は1612年(慶長17年)の鹿狩りに備えて、56000人の弓鉄砲の者のほかに、670頭の大型猟犬を集めていました。

塚本によると、これらの獰猛な犬は、南蛮犬または唐犬と称されたグレイハウンド種であり、狩猟に使われるだけでなく、保有する大名の権威付けや競合相手に対して力を誇示するために利用されることにもなりました。

江戸の大名屋敷では一度に数百頭もの犬を抱え、飼育を担う中間たちが犬を引いて町中で庶民を脅かしている図も当時の屏風絵などに描かれています。

犬には生肉が与えられ、ますます獰猛になり、生まれてしまった不要な子犬は武家屋敷から塀の外に放り投げることで、手っ取り早く処分することが頻繁にあったようです。それが江戸の町の野良犬になりました。

(「犬将軍」)

国許でも、1761年(宝暦11年)末、信州上田藩の百姓一揆(上田騒動)の際に殿様秘蔵の唐犬4匹が山に放ったことがありました。一揆弾圧用に放したのではなく、領主の無用の出費などで唐犬の飼育が、百姓の怨みの的となっていたからでした。その後、しばらく山中で見かけられたということです。

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2018年4月14日 (土)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証6~生類憐みの令は何十万の人を苦しめた悪法だった?これもウソでした!

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【諏訪高島藩で何があったか】再検証6~生類憐みの令は何十万の人を苦しめた悪法だった?これもウソでした!

2018414

号外No.8

 By Asakura

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前回は、徳川綱吉の功績は「価値観の大転換」という結論でしたが、では、その政策の柱だった「生類憐みの令」は過酷な厳罰主義で人々の精神を強引に変えていった法令だったのでしょうか。

 

「人命より動物を優先させさえした」

「人々は過酷な環境に置かれていた」

と栗栖も村上も生類憐みの令が厳罰を伴ったということを前提にしています。

違反者をびしびしとしょっ引いて牢にぶちこんだり、首をはねたりした恐怖政治で、新井白石が「折りたく柴の記」に書いているように何十万もの人が苦しんだ悪政だったのでしょうか。

どうやら違うようです。具体的に見ていきましょう。

 

●何のために、いつ始まったのか

「生類憐みの令」を昭和になって最初に再評価した塚本学は、その開始時期について、こう書いています。

「生類憐み令なるものは、綱吉個人の恣意によって、あるとき突然に始まったというものではないから、始期を特定することはむずかしい」

諸国鉄砲改め、犬に関する愛護の令が1685年(貞享2年)、捨て子捨て牛馬の禁令が1687年(貞享4年)、塚本はこのあたりを一連の生類憐み政策の開始と考えています。

 

塚本は「この政策の意図したところは人間を含む一切の生類を幕府の庇護・管理下に置こうとするものであると同時に、諸国鉄砲改め令も生類憐み政策の一環であり、徳川政権による人民武装解除策という意味をもった」と、ちょっとおどろおどろしい陰謀論を展開していますが、これには山室恭子は批判的です。

陰謀論ではなく、正面から綱吉の政策を見たらまったく違う側面が姿を現したというのです。

 

 

●憐み政策の構成

「生類憐み政策」の展開状況を、整理してみましょう。

 

塚本「生類をめぐる政治」では、上記のように、鉄砲改めを「生類憐み政策」に加えています。山室が「黄門様と犬公方」で塚本の説を整理していますので、それを拝借します。

 

**************

塚本氏は生類憐みの令を「将軍個人の嗜好の問題ではなく、当時代の社会状況への一つの対策」として読み解こうとされ、発令者側の意図として、以下の諸点を挙げられた。

・鉄砲の抑制―当時、農作物を荒らす害獣を追い払うため、村々にはかなり多数の鉄砲が存在した。幕府は生類憐みを機に、鉄砲の使用を登録制にして統制しようとした。すなわち「生類憐み政策」は徳川政権による人民武装解除策という意味をもった。

・カブキモノの取り締まり――当時、都市では犬を食らうという習俗が、カブキモノすなわち無頼な連中のあいだに行われていた。幕府はそれを取り締まるために、犬の保護をうたった。

・野犬公害への対策—―当時、江戸の町に多数の犬が横行し、町民の生活にトラブルを発生させていた。そこで中野に犬の収容所をつくって対処した。

・宿場の馬の確保――当時、交通網の基礎をなす宿駅制度に必要な馬は、農民の飼育にゆだねられていた。幕府は馬の保護を命ずることで、この制度を維持しようとした。

**************

 

塚本のこの観方は、政権にとっての危機管理の意図という観点で貫かれています。

これに対して、根崎光男(「生類憐みの世界」)は、塚本の鉄砲管理が武装解除とする見方、大名に対する統制になったという考え方には概ね同意しているようですが、山室は法令の隠された意図を探ろうとすること自体に違和感を感じると述べています。

「綱吉は痛くもない腹を探られているのではないか」というのです。

 

 

※「生類憐みの世界」根崎光男 同成社江戸時代史叢書 2006

 

 

生類憐みの内容、構成としては対象動物から見ると犬、馬、鳥があり、捨て子病人の保護、囚人の健康状態への配慮など広範囲にわたり、ボダルト=ベイリーは、世界で始めての福祉政策だとまで語っています。

どちらの見方が正しいのでしょうか。私は、読み比べてみて、山室説に軍配を上げました。その山室説をご紹介します。

 

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2018年4月12日 (木)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証5~徳川綱吉時代生類憐みの令は史上最大の悪政というのはホント?ウソでした!

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【号外】「諏訪高島藩で何がおきたか」再検証5~徳川綱吉時代生類憐みの令は史上最大の悪政というのはホント?ウソでした!

2018412

号外No.7

 By Asakura

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号外のみ、ブログ「森とシカtoオオカミ」で公開します。

 

 

江戸時代の狼襲撃事件の背景として、「徳川綱吉」と「生類憐みの令」は避けて通れません。

ちょうど綱吉の治世、元禄時代を中心に大きな狼事件が起きていて、確かに関係があると思われることもありますし、歴史研究者や著者が狼事件との関連に言及しているからです。

 

たとえば、栗栖健は「日本人とオオカミ」の中で

「いわゆる『生類憐みの令』は、綱吉の迷信によって、人命より動物を優先させさえした。『徳川実記』に出ている令の内容と「実記」にある他の時代の記録から、皮肉にも17世紀末ごろ幕府が記録しなければならないほどの狼害が発生していたことがわかる」

と書いていますし、村上一馬も「東北学062015)」に収録された論考で

「飛びかかってきた狼をたたき殺しても半年間の村預けにされている。・・・元禄から宝永年間は徳川綱吉による『生類憐みの令』が断行され、・・・たとえ人や馬を害する狼であっても、丁寧に扱うよう指示されていた」「人々は過酷な環境に置かれていた」と事件の背景を推測しています。

 

 

●従来の徳川綱吉の評価

このような見方は従来の徳川綱吉の評価「綱吉は暗君」、「生類憐みの令」は悪法という定説を踏襲したものです。

今まで、「生類憐みの令」と徳川綱吉は、

「史上最大の悪政の一つ」

「世界の封建制史上でも最大の悪法」

「犬を守るために人間を殺した支配者」「迷信を信じやすい支配者が狂ったように犬を溺愛した」

あるいは「精神異常をきたした結果」とまで言われ、綱吉といえば別名「犬公方」と呼ばれているように、「人間よりも犬を大切にした最低の将軍」という評価は、中学高校の歴史教科書にさえ反映していますから、誰もが知っている定説ということになります。栗栖健も村上一馬もこの説をまったく疑っていないようです。

 

 

●新しい綱吉像

しかし、「生類憐みの令」に関する研究を調べてみると、その事実関係はそう単純ではなく、その歴史的評価は見直しが積極的に進められ、新しい見解が提示されつつあります。

 

たとえば、

※「生類憐みの政治 元禄のフォークロア」塚本学 平凡社 1993年(原著1983年)

※「黄門さまと犬公方」山室恭子 文芸春秋文春新書 1998

※「逆説の日本史13近世展開編」井沢元彦 小学館 2006

※「犬将軍 綱吉は名君か暴君か」ベアトリス・Mボダルト=ベイリー著 早川朝子訳 2015

 

などは、「生類憐み政策」を見直し、綱吉の意図を読み解いています。人物評価についても塚本を除いては評価を逆転させています。

 

塚本は、1983年に書いた「生類憐みの政治」で、「生類憐み政策」の意図を分析し、当時の社会状況への対策だったと言って、学会で初めて、「政策」として検討しました。しかし、綱吉本人の人物像については「政治家としての資質には低い評価を与えねばなるまい」「日本社会の文明化を推進した理想主義者ではあるが小心者の専制君主というのが、私の綱吉像である」と手厳しい評価を下しています。(「徳川綱吉」塚本学著)

その点を井沢は、まだ旧来の常識にとらわれた見方だと批判的に書いています。

 

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