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2021年6月 7日 (月)

オオカミ再導入は「人間の身勝手」なのか?

オオカミの再導入を主張すると「そんな人間の身勝手は許されない」と批判されることがあります。

「人間の身勝手」の批判は、「かつてオオカミを絶滅させた人間が再び復活させるなんて」それに加えて「またオオカミが増えすぎたら殺す(のだろう)なんて」身勝手な、と膨らみに膨らんだ想像を根拠にされることが多いのですが、この場合の「身勝手」とはいったいどのような意味でしょうか。何が「勝手」に見えるのでしょう。

分解してみると

「必要もないのに」

「人間の都合で」

「しかもその時々の思惑で」

「殺したり復活させたりを繰り返す」

ことが「身勝手」だと感じられるのかもしれません。

あるいは「自然に手を突っ込む」人間がやってはいけない行為だという論理もありますね。

この「身勝手論」を深掘りしてみます、

 

通常パターンの「身勝手論」は人間対自然、あるいは野生動物の関係のなかで、人間側のご都合主義に対してのものだと思われます。

「100年前に絶滅させておいて、いまさら復元、復活とは「身勝手」な」とする野生動物側から見て、代弁する非難です。あるいはもっと高みから見下ろして人間の行動を非難しているのかもしれません。

そうは言いますが、私たち再導入派は絶滅させた当事者ではありません。ということはこの論は日本人全般に向けてのものでなければなりません。確かに約100年前に日本人がオオカミを絶滅させました。その事実は認めなければなりませんので、

 

一方、オオカミが絶滅した後に起きた現象は「シカが増えすぎて植生を破壊している」ことですが、オオカミとの因果関係を認めるかどうか次第でオオカミ絶滅の結果責任の評価が変わってきます。現在の植生破壊の意味をどう理解しているかが問われるのです。

A.因果関係なし。オオカミという一つの種がいなくなっただけ。シカの増殖と植生破壊は別の原因で起きているのだ。

B.因果関係あり。生態系のカナメが失われた。植生破壊はその結果である。

 

その認識の上に日本人が取ることのできる選択肢は3つあります。

1.そのまま放置

2.後始末は人間が(捕食者不在状態はそのまま)

3.修復する(大陸には同種が生息)

「そのまま放置」は態度としてはあっても現実にはありえないので省きます。2か3を選択しなければなりませんが、「身勝手派」はAの上に2を、またはBと理解したうえで2を選択し人間が代役を務めるのだとする場合もあるかもしれません。それに対して「再導入派」はBの上に3を選択しました。その結果「身勝手派」が「再導入派」を批判しているのが「身勝手論」です。

さらに「身勝手派」が「再導入派」を非難する論点が「またオオミが増えすぎたら殺す(のだろう)」です。これも私たちは当事者ではありませんし、そのような意思決定をすることは止める立場をとるものです。だからこの非難にはこちらは目を白黒させて戸惑うばかりです。それに「人が喰われたら誰が責任を取るんだ」という非難と同様、まだ再導入が実現どころか議論も始まらないうちから非難されてもなんとも答えようがないわけです。

そしてこの人たちは「シカが増えすぎたから殺す」ことには何の文句も言いません。

 

最初に戻って分解した項目と私たちの立場を照らし合わせると

「必要もないのに」→生態系の修復に必要だから

「人間の都合で」→生態系を壊した責任があるから

「しかもその時々の思惑で」→100年以上前の日本人の行為を反省して

「殺したり復活させたりを繰り返す」→いなくなった動物を取り戻し、再び絶滅させることのないように

と私たちの目的を弁護することができます。

 

最近になり、別のロジックの「身勝手論」を目にしました。

その論法は、「里山管理が中途半端なところへ【オオカミ再導入】なんて「人間の勝手」だ」と非難されていたのですが、上記の「人間対自然、野生動物」の構図のなかではこの場合の「勝手」は理解することが困難です。

現状の日本の自然のなかで、前提とされている「里山管理が中途半端」な状況は野生動物側の事情ではなく、人間側の力不足です。そして野生動物サイドの状況をよくみれば、(この論者の理解ではそうではないかもしれませんが)里山が管理されていようがいまいが関係なく、野生動物・生態系側は頂点捕食者がいなくて困っているのです。

「里山管理」が間に合わず、何らかの理由で「オオカミ再導入は困る」と考えているのは人間であるにも関わらず「人間の勝手だ」と自然を代弁するような批判は意味をなしません。つまり、人間対野生動物という図式は、この論者の身勝手論を理解するにはふさわしくないのです。むしろ「里山管理派」対「オオカミ派」の対立と考えたほうが理解できます。「里山派がきちんと管理しようと活動しているのにオオカミ再導入などと余計なことをするな」とはねつけている構図です。

つまり自分の立場から他の意見を持つものを非難しているにすぎません。それを「人間の勝手」と言われても・・・

もちろん生態系を修復するなどということは人間の勝手かもしれません。混乱した生態系をもう見たくない、森や生物多様性が脅かされるのは見たくない、という情緒に基づく部分もありますから。

でも生態系の修復を考えもしない、というのも「人間の勝手」です。原因を作ったのは人間側であって、その責任をどうとるかも人間側に任され、彼ら「里山管理派」は人間の責任において頂点捕食者の代役を務めることを選び、もう一方の「生態系修復=オオカミ再導入」は顧みもしないと言っているわけですから。頂点捕食者の代役を務めるのは並大抵のことではありません。ただ単にシカを殺せばいいというものではなく、生態系全体をコントロールする責任も付随しますから、それが簡単にできると考えているとしたら「無責任」と言わざるを得ません。私は「人間にはできない。かつてできた例もない」と考えています。

 

どちらの「身勝手論」にもいえることですが、現在進行中のシカ対策とオオカミ再導入のどちらが「人間の勝手」なのでしょう。

昔捕食者であるオオカミを滅ぼして、なおかつシカをも絶滅寸前にまで追い込み、金にならなくなったから狩猟もやめ、減りすぎたから保護し、今度はシカの増えすぎ状態になった。それでは農林業に支障が出るからといって環境省はシカの半減目標を立てました。狩猟数捕獲数が不足しているため減らないと判断すると、今度は単年度で半数を継続して獲るべきだ、と自治体やハンターの尻を叩いています。300万頭の生息数の半数を毎年捕殺しようというのです。増えすぎたら殺せばいい、それが「里山の管理」というものだ、罪の意識は「食べることで贖罪」すればいい、とはなんと身勝手な。しかもそれを後押しする「ジビエ」の言い分は、贖罪ですらなく「獲った動物が捨てられるのはもったいない」です。

「身勝手」なのはどちらでしょう。

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