江戸時代におきた狼事件で、今まで取り上げられてきた最大の事件が、元禄時代に記録されている諏訪高島藩の事件、現在の長野県茅野市、諏訪市でおきた事件だと思います。しかし、それがオオカミによる事件であるのかどうか、私は疑問に思い、5年ほど前に「森とシカtoオオカミ2」ブログで以下のような記事をアップしました。
諏訪高島藩で何が起きたか①~日本のオオカミ襲撃事件簿
諏訪高島藩で何が起きたか②~時代背景
諏訪高島藩で何が起きたか③~諏訪高島藩の状況
諏訪高島藩で何が起きたか④~オオカミ襲撃事件の真相は?
5年たった今でもこの検証の方向は正しいと思っています。前にはまだはっきりわからなかったことが、その後も調べていくうちにはっきり見えて来たこともあり、改めてきちんとこの事件を検証してみたいと思います。
時代背景、生類憐みの令、諏訪高島藩の状況、農業・農村・森林の状況、事件現場の状況など、順を追ってオオカミの習性を交えて、何回かに分けて書いていきます。まず、事件の記録について整理してみます。
●諏訪高島藩の事件
諏訪藩御用部屋日記(あるいは信州高島藩旧誌)にある元禄15年の事件です。被害の記録を取り上げているのは下記の3人の本です。
千葉徳爾著「オオカミはなぜ消えたか」
栗栖健著「日本人とオオカミ」
平岩米吉著「狼―その生態と歴史」
「日本人とオオカミ」栗栖健著は、長野県の郷土史家藤森栄一氏が掘り出した記録、信州高島藩旧誌(「古道」という冊子にまとめている)をまるごと引用しています。藤森氏はその日記の筆者は高山善右衛門と久保島善左衛門が書いた手記としています。
藤森氏の「古道」から引用します。
「元禄15年(1702年)「信州高島藩旧誌」のうち、高山善右衛門と久保島善左衛門が書いた5月、6月の手記に、狼の大被害のことがみえている。
5月11日、これが初見で、狼がまた北大塩村、塩沢村に出柄人馬を害したので、目付吉田仁右衛門に手勢をつけて鉄砲を差し許した、ということを書いている。その中の「また」は、どうもふたたびというニュアンスがある。つまり、このころになって狼が近郊に出没するようになったと考えていいようである。ところが、6月になると、いよいよひどいことになる。
3日 晴 渡世鉄砲中村の吉左衛門、南大塩村観音林にて、狼二匹打ち留めにつき褒美2両
4日 雨 福沢村庄助、小屋場にて、狼一匹打ち留め褒美1両
同日 塚原村庄五郎同判右衛門、横内村にて狼1匹打ち留め褒美1両
9日 中金子村庄屋利右衛門方8歳女児喰い殺さる。群をなしての襲来にて、施さんにも術なし。
そうした被害は、現茅野市の八ヶ岳西麓の村々、山村から平野の村、さては街中の横内、矢ケ崎、塚原、上原いまの諏訪市街の真ん中小和田にまで及んで、16件、16人の男女、男子は10~17歳、女子は10~24歳までが喰い殺されている。被害の総数は入っていない。そして次の悲惨な記事で、この狼事件はぷつんと切れたまま、長い江戸時代を通して、もう顕著には出てこない。
22日 新井新田彦左衛門一人息子12歳が、昼庭に遊んでいると、狼が飛来して噛み付き、昼間故、家中総出で、棒や鋤をもって格闘するや、狼は倅をくわえ山林に遁走した。家人はあまりの悲惨さに首をつってあい果てた。
この記録は何を意味するのだろう。元禄15年の5月から6月に至る約2ヵ月、突発的に物凄い狼の跳梁があったのである。」
そして藤森氏の筆は、加賀藩の狼事件の記録に移っていきます。
同じ元禄15年(1702年)の事件を「オオカミはなぜ消えたか」(千葉徳爾著)は「諏訪藩御用部屋日記」を出典として次のように書いています。
4月28日
一、山浦筋殊の外狼荒人馬を損じ候に付き、渡世鉄砲之者に申しつけ、御扶持くだされ、打たせ申す筈、但し、一人黒米1日に9合くだされ候。勿論狼打ち留め候へば、壱つにつきご褒美金1両ずつ下され候云々
6月12日
埴原田村渡世鉄砲五郎作、西山田村彦兵衛、狼壱つずつ打ち留め候段云々
同日 渡世鉄砲中村吉衛門と申す者、南大塩村観音堂林のうちにて狼二つ打ち留め候につき云々
6月22日
乙事村渡世鉄砲善右衛門と申し候者狼壱つ打ち留め候
一、去る5月より当月(7月)15日迄狼喰候者左に記す。
5月18日、塩沢村甚兵衛男子15歳喰殺候
5月9日、北大塩村市左衛門女子12歳、喰候得共疵少故押付直る。
同 両角六郎兵衛召使下女14歳喰殺候
5月11日、土橋佐五衛門召使下女15歳喰殺候 是は両角太郎兵衛の譜代兵四郎子の由
同日 北大塩村七郎兵衛の女子13歳 半死半生死生不知
6月4日 上桑原村伝八郎下女16歳 喰られ共疵軽き由
7日 糸萱新田七左衛門倅12歳 喰殺候由
同日 芹ケ沢村八右衛門女子13歳 昼時喰殺候由
6月5日 南大塩村孫左衛門下女24歳 喰れ候疵三ヶ所に候え共重くは無之候
合計9人のうち死者5人、危篤1人、軽傷3人
(引用終了)
記述に若干食い違いがありますが、同じ事件を二つの日記が書き記していますが、両者を付き合わせると、事件はおおよそ以下のように推移しています。
4月に馬への襲撃があり、5月6月と十数人の少年少女が襲われ、死傷した。
6月に入り、次々にオオカミが打ち留められた。
6月22日に最後の襲撃があり、同日別の場所で1頭のオオカミが打ち留められ、合計で8頭のオオカミを猟師が打ち留めて襲撃は終息した。
●事件現場
この記録には事件がおきた地点の村名が記載されています。たとえば南大塩村、北大塩村、塩沢村、桑原村などと書かれていますが、これは現在の茅野市の地名町名に残っています。たとえば平昌オリンピックのスピードスケート女子500メートルで金メダルを獲得した小平奈緒選手は茅野市出身です。その小平選手の地元に市民ら計700人以上が集まって声援を送ったと報じられたパブリックビューイング会場は南大塩公民館でした。
江戸時代の村名と茅野市諏訪市の町名は一致していますので、事件現場がどのあたりなのか、地図で特定することができます。

【諏訪高島藩の狼事件現場】
(赤い★マークが襲撃事件、黄色い矢印が駆除地点です)
諏訪湖の湖岸の平地の真ん中に高島城があり、高島藩の中心です。藩領は諏訪湖の北岸(左上)から、八ヶ岳の麓まで広がっています。現在の市町村名でいうと諏訪市、茅野市、富士見町にあたります。
諏訪湖(左上)から右下に向かって湿地が広がり、築城当時は湖水の上に浮かぶ浮き城と呼ばれていました。この湿地にも新田が開発され、現在はこの周辺もほぼ乾いて住宅地になっています。
中央に広がる盆地が現在の茅野市のエリアです。北にせりあがっていく霧ヶ峰、美ヶ原は約2000メートルの高原、東には八ヶ岳がそびえています。
千葉は、この地域での山林開発によってできた村落では、草刈り場の拡大によってその以前から棲息していた野獣が、安住の地を狭められ、元禄時代をピークとする入会地の草刈についての紛争のとばっちりを受けた狼が、生存、子育てを脅かされて防衛しようとして結果ではないか、と推測しています。
さて、千葉の推測は正しいでしょうか。
当時がどのような時代だったのか、事件現場が、どのような場所で、山野はどのような様子だったのか、野生動物は、オオカミはどこに生息していたか、住民は誰で、どのくらい住んで、何をしていたのかが、事件の全容解明に必要です。時代背景から探っていきます。
確かに千葉のいうように、子育て時期の反応と考えることもできるかもしれません。子育て時期は、前号で書いたように、まさに春から夏です。
しかし、どうでしょう。事件現場は高島藩の農村のど真ん中です。ここに巣穴があり、巣穴から離れられない時期にヒトの脅威から子どもを護る行動だったといえるでしょうか。