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日本のオオカミ被害

2013年3月 9日 (土)

諏訪高島藩で何が起きたか④~オオカミ襲撃事件の真相は?

背景の整理

信州の人口は増えていた。また事件の起きた元禄時代、信州の山は禿山、草山、柴山ばかりだった。江戸など大都市の木材需要に応えるために木が伐採され、新田開発によって耕作地が増え、その耕作地の肥料を得るために、草山が維持され、良質な草を採取するため火入れも行われていた。新田開発のため増えた村々の薪炭需要をまかなうため柴山も残されていた。信州諏訪の景観は、見晴らしのよい草原のようであったと想像できる。

このような山野はシカのエサ場として好適で、シカが増えたとすれば、当然オオカミの増加も推定できる。

高島藩初代藩主諏訪頼水(1601~1640)が数年間の無年貢、諸役の免除、集落周囲の草地占有などの免許、定書を出して新田開発を進め、諏訪地方では50年ほどの間に60以上の新田村が生まれている。高度成長期のニュータウンのように、諏訪の村々は活気に満ちていただろう。

そのようなときに1680年、徳川綱吉が五代将軍に就任する。生類憐れみに関わる法令が次々に出され、狩猟も制限されたため、野生動物はまた増加しただろう。江戸では街中に犬があふれていた。地方でも同様、犬の虐待は厳しく咎められた結果、野犬も増えていただろう。

そのような時代背景で事件は起きている。

この事件は狂犬病によるものではない。狂犬病は諏訪の事件の30年ほど後に流行するわけであるが、事件のもう一つの背景を想像する手がかりを提供してくれる。

狂犬病はイヌ科を含む温血動物すべてに感染する病気で、オオカミにも流行する。ただしオオカミの生態には強固なナワバリを張るという特徴がある。オオカミにとって隣の群れとの接触は死ぬまで戦うことを意味するので、遠吠えでお互いを避けあうほか、群れと群れの間には緩衝地帯が設定されるのがふつうである。したがってもし1頭のオオカミが狂犬病に感染し群れ全体へ感染しても、ほどなくその群れのメンバー全頭が死滅して終息することになり、地域的な大流行には結びつきにくい。大流行には他の要因が必要であって、それがナワバリのゆるい野犬による媒介であるという考え方がある。後にオオカミに狂犬病が大流行したことは、当時山野にイヌが多かったことを想像させる。

諏訪の事件をもう一度整理する。

事件現場は、今の諏訪市、茅野市の境、霧が峰の前衛にある永明寺山【標高1120m・標高差400mほど】の麓に集中している。現場の範囲は、東西20~30㎞、おそらく5~6万haの範囲に収まる程度の広さである。この周辺は、新田村が多数できた地域でもある。

そこで十数件の襲撃事件が起き、合計8頭が駆除され、事件は終息した。

事件を記した二つの日記。何度も読み返して、疑問に思ったことがある。これはオオカミの仕業だろうか?

中金子村庄屋利右衛門方8歳女児喰い殺さる。群をなしての襲来にて、施さんにも術なし。



オオカミも群れでエサを獲るが、「群れをなしての襲来」という記述は、犬が多数集まって、一斉に騒ぎ立てるイメージが湧く。

また、頻繁に人里周辺で事件を起こしていること、「喰殺」とは書かれているものの、どことなく捕食行動ではなさそうな、遺体が損傷していたとは思えない記述である。遺体が激しく損傷していたら、最後の事件のように親たちが嘆き悲しむ様子が書かれていてもおかしくない。捕食に結びつくような記述は22日の一件だけだが、これも大人が多数いるような庭先に入り込んでの行動がどことなくオオカミらしくない。

当時は、オオカミとヤマイヌは同じオオカミを表現すると思われているが、記録の上で区別されている場合があった。「狼」と書かれていても、「ヤマイヌ」と混同しているらしい記録もある。諸説あって決定打はないが、当時の日本の山野には、「オオカミ」と「ヤマイヌ」の2種がいたする想定を否定することはできない。「ヤマイヌ」の由来も不詳であるが、生類憐れみの令の影響で、野犬も日本全国であふれ、人間が襲われるような事件も起きていたらしいことを考えれば、イヌの野生化、あるいはイヌとオオカミの交雑を想定することもできる。

オオカミの絶滅原因について、千葉徳爾は、著書「オオカミはなぜ消えたか」の中で加賀藩で街中に暮らして人に馴れたオオカミや、オオカミの挙動の違いからオオイヌと呼び習わした加賀藩の様々な記録などから、オオカミと犬の混血を疑っている。

この事件についても、「オオカミ」である場合と、「オオカミでない」場合の両方を疑って考えてみたい。


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2013年3月 3日 (日)

諏訪高島藩で何が起きたか③~諏訪高島藩の状況

高島藩の新田開発

襲撃記録が多い時代は元禄から享保時代にかけて、江戸幕府が開府されて以来人口増加の著しい時期であり、新田開発が盛んに行われた。

高島藩(諏訪)では初代藩主諏訪頼水(1601~1640)が数年間の無年貢、諸役の免除集落周囲の草地占有などの免許、定書を出して新田開発を進めた結果、それ以降50年ほどの間に60以上の新田村が生まれている。(草地と日本人)

新田開発に伴う草地の増加

新田が開発されると、その当時の肥料用の草の量から考えて、耕地1反の面積に対して、その10倍の草地が必要と、信州伊那の例を上げて「草地と日本人」は推定している。また馬を一頭飼えば約2haの草地が飼料用に必要である。そのため全国で草地の所有権をめぐり訴訟が起きている。

新田開発が進んだ諏訪地域でも、草地の所有・利用をめぐって霧が峰山麓の村落間では草本類をはじめとして資源利用の争いが頻発したという。

また、草地は良質な草を得るために、火入れが行われたことも少なくなかった。

入会地

草地利用のため、入会地が設定され組合が結成される。

諏訪に残る古文書から、各村の農家、農村が入会地組合を作っていたことがわかる。

組合の構成村数は、小さな入会地組合でも10数ヶ村、大きな組合では60ヶ村にもなる、広範な地域から集まっていた。

速水融の諏訪研究

家族構成は、江戸時代早期には大家族、下るにしたがって小家族化する.

速水融「近世日本農村の歴史人口学的研究」は、諏訪の農家を研究対象としているから、正にこの時期の諏訪の農民の世帯規模がわかる。

家族構成の例は・・・・・

17世紀末期には世帯平均7.0人、18世紀前半に6.3人、後半に4.9人と減少していく。

事件の時代は17世紀末であるから、大家族構成で、初期には下男、下女のほかに戸主の兄弟や叔父、叔母などの傍系親族が多数同居していたものが、これら構成員が独立して世帯規模が縮小していった。これは生産性が上昇していった過程を示すものでもあり、一家に必要な労働力が減少していった過程を示すものでもある。

襲撃された少女が下女と呼ばれる例はそのような、大人数の労力を必要とする農家の大家族の構成員であったことを示す。


高島藩の森林、農村事情を整理すると、

この当時の諏訪藩では、名君の下転封以来新田開発が急速に進み、江戸からの木材需要によって森林が伐採されて運び出された。その後の森林は草地として農民に利用され、新田開発で急速に増えた新田村の村落間で共同利用が進んだが、時には入会地の境界で争議が起こり、訴訟にもなっていた。入会地での草刈は農家の少年少女の役割である。

野生動物事情

シカの増減

ニホンジカの食害による森林被害の実態と防除技術の開発(小山泰弘・岡田充弘・山内仁人)に江戸時代からのシカの頭数推移の模式図がある。

http://www.pref.nagano.lg.jp/xrinmu/ringyosen/01seika/01kankoubutsu/02kenkyuu/024/iku-24-1.pdf

様々な記録から、長野県全域のシカ生息数の増減を推定したものである。

これによれば、1600年から1700年にかけて、シカは急増している。ちょうど森林伐採、新田開発、草地拡大が進んだと思われる時期に重なる。

その後、生息数は高いレベルで維持され、この頃獣害も頻繁に記録に現れるようである。

獣害

獣害対策に、各村が猟師を雇う、鉄砲を購入する、だけでなくシシ垣を建造した記録もあり、実際に跡が残っている。

長野県内には松本市から塩尻市にかけて総延長28kmにわたって築かれた「鉢伏連峰西麓の猪土手」,延長5km以上の大きな猪垣だけで長野市や須坂市,伊那谷など県下に7 箇所(浦山1999)がある。

現代のシカ増加事情から推定すれば、森を切り開いて草原にすればシカは激増する。

このような獣害の記録は、森林伐採のため山間地に進出した人間が食糧のため田畑を作り、新田村によって森林が切り開かれ、人間が野生動物の領域に侵した最前線が拡大していったための軋轢ではなかろうか。

シカ等の野生動物が増えれば、当然シカ等を捕食する肉食獣であるオオカミも増える。家族群であるオオカミの群れも、周辺には数多くあったと考えられる。

2013年3月 1日 (金)

諏訪高島藩で何が起きたか②~時代背景

まず、襲撃事件があったのはどのような時代だったのか、その背景から調べていこう。


キーワードは人口増加 都市建設 築城 火事 災害 森林伐採 耕作面積拡大 新田開発 農法確立 綱吉政権 生類憐れみの令 

人口増加

元禄15年1702年は関が原の戦いから約100年が経過し、元禄は泰平の世と一般に言われている時代だった。その第一の特徴は、人口増加である。

縄文、弥生に続く人口増加の「第三の波」は、14世紀前半の南北朝時代から始まり、1730年ごろピークに達する。江戸幕府開府の1600年頃、1227万人と推定される人口は、世の中が落ち着いてくるとともに増え始め、1700年には3100万人を超えたと推定されている。100年で2.5倍,、年200万人増のペースである。

明治維新後の日本の人口も年100万人増のペースを維持し、増加率が高かったが、それ以上のペースである。

地域による増減の差もあり、概ね西日本は増加傾向、東日本は減少傾向にあった。信州がどちらに入るかを明確に示した資料はなかったが、急速な新田開発の様子を見ると、人口増の地域に分類されると思われる。

建築ラッシュ

また、関が原の戦後、1600年代前半は、各地に大名が転封されることにより、築城が相次ぎ、また人口増加により都市建設が進んだ時代であった。1606年に江戸城の造営が始まり、江戸の町に巨大寺社、仏閣の建立が続いた。関西では1709年に再建東大寺大仏殿が完成している。

火事・災害

木造家屋が密集する都市が建設されたことで、大火の発生の多い時期でもあった。有名なところでは振袖火事と呼ばれる明暦大火は、江戸市中のほとんどを焼き、10万人の死者が出たという。また江戸城天守閣も焼失し、保科正之が天守閣の債権を断念し、江戸市中の復興を優先したというエピソードを生んだ。

1700年以前の大火を上げると、、、

明暦3年(1657年)明暦の大火(振袖火事)

天和2年(1682年)天和の大火(八百屋お七の火事)

元禄11年(1698年)勅額火事

また、自然災害も多い時期であり、水害、噴火、地震等、街を壊滅させるような大災害が相次いだ時代でもある。

森林荒廃の時代

人口増加と都市の建設、築城、さらに大火、大災害は復興のための木材需要を生み、各地で森林が伐採されている。そのため、各地の山は禿山、草山と化していた。

例えば檜の良材を算出する木曽の山は、秀吉の方広寺大仏殿や伏見城造営に、徳川家康と尾張藩のために江戸城、駿府城、名古屋城、東照宮、増上寺の造営に、木曽ヒノキの材木と屋根板材を供出し、ついに隣の伊那の山とともに、搬出可能地は「尽き山」になってしまったという。木曽の山が留め山になったのは、寛文5年(1665年)からだから、その後木材需要は別の地域に向かったに違いない。諏訪の山が留め山になったのは18世紀半ばである。



森林の荒廃は各地を旅行して歩いた文人たちの手によって書き残されている。

その当時の森林事情が「草地と日本人」には、こう書かれている。

「新田開発が行われるような集落に比較的近い里山だけでなく、城郭や武家屋敷の用材となる大径木を算出する奥山・深山まで、江戸時代初期においては森林が伐採された範囲は非常に広かったのである。荒廃した山の状態は、岡山藩の熊沢蕃山が「天下の山林十に八は尽く」と書いた」

森林荒廃の原因は、巨大建築の用材だけでなく、瓦の焼成や人口増に伴う薪炭利用のための木材需要でもさらに増加した

森林が伐採された山は、草山、柴山となっていた。

農業事情、耕地開拓

人口増加による食糧事情は、新たな耕地開拓、新田開発を要求する。1600年に220万町歩(ha)だったと推定されている全国の耕地面積は、1700年には推定296万町歩に増加している。

農法確立

同時に、耕作地からの上がりを増やす努力も続けられ、収量が増加する

各地で農民は農法を研究し、その農書が流通し、新技術が全国に広まった。収穫量を上げる決め手は肥料の使い方であり、この時代から明治まで、肥料の中心は特に江戸中期に金肥(干し鰯、油粕、大豆粕等)が普及するまで草肥の時代が続く。

肥料に使用するための草地の面積は、耕作地1反につきその10倍以上を要し、森林伐採後の草地をさらに広げることとなった。また耕作の補助となる牛馬の飼育にも草地が必要となる。当時の資料から馬一頭につき2町歩(ha)を必要とすることがわかる。(草地と日本人)

 

動物事情・綱吉政権と生類憐れみの令

元禄は徳川綱吉政権の時代である。将軍就任は延宝8年(1680年)、宝永6年(1709年)まで続いた。生類憐れみの令で有名であるが、実はその名前の法令は出されていない。天和2年(1682年)に出された高札に「忠孝を励み、夫婦・兄弟・諸親類が仲良くし、召し使う者まで「憐憫」しなさい。もし忠孝にそむく者がいたら重罪にする」という意味の高札が全国で繰り返し掲げられたことをその始まりとする説が有力である。


既に家綱時代から、特に江戸の治安対策のため関八州の鉄砲の管理が始まっていたが、その管理が徹底され、村落にある鉄砲は所有者が登録され、使用には厳密な許可が必要な時代になった。

犬対策の達成のために江戸周辺の四谷、大久保、中野に広大な犬小屋が設置され、そこに中野だけでも多いときには8万匹以上の野良犬が収容されている。


ところがこの犬小屋は、単に犬を保護するためではなく、犬による被害を軽減するためでもあった、生類憐れみの中には、捨て子を禁じる法令もある。捨て子は多く、イヌ襲われる事態もあったことから、野犬対策の目的もあった。逆にいえば、その頃の江戸では捨て子が放置され、被害を受ける事態がよく起きていたということである。


最近の学説では、「生類憐れみの令」は、幕府がヒトも含めた生類すべてを庇護し、捨て子、捨て牛馬、行き倒れ人をなくすという点からも重要だったと考えられている。

従来の解釈のとおり、生き物の殺傷も処罰されている。犬、鼠、猪、鹿、猫、馬などを殺傷し重罪に処せられた判例が17世紀後半の町奉行所の記録に数多くある。

これがおおよその時代背景である。

参考文献

「環境先進国 江戸」 鬼頭 宏著

「草地と日本人 日本列島草原1万年の旅」須賀 丈他著

「鉄砲を手放さなかった百姓たち」武井弘一著

「村からみた近世」渡辺尚志著

「江戸の自然災害」野中和夫編

「県史 長野県の歴史」古川貞雄他

「歴史の中の江戸時代」速水 融

「生類憐れみの世界」根崎光男著

2013年2月28日 (木)

諏訪高島藩で何が起きたか①~日本のオオカミ襲撃事件簿

日本の古い記録、特に江戸時代には、オオカミが人を襲った事例が数多く記されている。

平岩米吉[「狼―その生態と歴史」等によれば、ちょうど徳川綱吉の治世元禄年間に、諏訪、加賀、越中で、その襲撃事件が記録に残っている。

記録好きの江戸時代の人たちが書きとめたものだから、これらは事実であろう。

この江戸時代に起きたオオカミによる人身被害の記録は、「オオカミ再導入」への反対の論拠として使われる。

「健全なオオカミは人を襲わない」という現代のオオカミ学者の言葉は、この資料によって否定される。

「日本では昔、オオカミに人が襲われた。しかも頻繁に。」

しかし、これは日本にだけ起きた特異な事件なのだろうか。

ヨーロッパでEUが、オオカミ保護に転じた後、ノルウェイ国立研究機関NINAは、ヨーロッパの著名なオオカミ研究者18人を集めて、オオカミによる人間の襲撃事件を、歴史をさかのぼって検証させた。オオカミによる襲撃がどのような状況で、どうして起きたのか、500年前までの文献から探し出し、すべてを分類した。そのレポートは、


A Large Carnivore Initiative for Europe (LCIE)

“The Fear of Wolves: A Review of Wolf Attacks on Human”(2002)

というタイトルで2003年に公表されている。日本オオカミ協会でHPに要約を掲載しているので参照されたい。


http://blogs.yahoo.co.jp/pondwolf39/33019216.html

LCIAレポートは検証できた全ての事例から、オオカミの攻撃を次の3つに整理している。

 

 

(1)狂犬病に罹ったオオカミによる攻撃、
(2)オオカミが人間を獲物とみているように思われる捕食的攻撃、
(3)オオカミが追い詰められたり、虐待されたりする時の対応として人に噛み付く防御的攻撃。





そして、オオカミの攻撃要因を4つあげている。



 

(1) 狂犬病: 狂犬病はオオカミの人間攻撃の大多数に関与している。

(2) 馴化: オオカミが人間に対して恐れを失った場合、たとえば、いくつかの保護区の例のように、居合わせた人間が襲われるリスクは大きくなる。

(3) 虐待: これには、オオカミを殺そうとしたり、わなにかけようとしたり、追い詰めたり、子オオカミのいる巣穴に入ったりすることが含まれる。

(4) 大きく改変された環境: 捕食性の攻撃の大部分は、さまざまなことが原因で起きている、きわめて人工的な環境で発生してきた。具体的には、ほとんど存在しない自然餌、餌になるゴミ捨て場や家畜のオオカミによる頻繁な利用、羊飼いを任されて放置状態の子ども、人間社会の貧困、オオカミを臆病にさせるための銃の不足などである。餌が非常に少ないからといって、子どもを食べなければならないとは考えられない。


こうした状況下でのオオカミの生態には、滅多に起きない捕食事件が起きるような状況がセットされる。すなわち、まさに、これらのことがオオカミを人間に異常に近づけるということなのである。特定のオオカミが一度人食いになれば、彼らは除去されるまでこの行動を続ける傾向がある。

***********

 

日本で起きた事例は、この分類に該当しない特異な事件であったのだろうか。

 

オオカミが、日本でだけは、突然に、理由もなく荒れ狂うことがあったのだろうか。
それを検証する必要がある

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