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日本のオオカミ被害

2018年4月29日 (日)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証8-結論オオカミはこの周辺に出没せず、犬が野山に多数生息。事件の犯人は山犬だった

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号外【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証8-結論オオカミはこの周辺に出没せず、犬が野山に多数生息。事件の犯人は山犬だった

2018429

号外No.10

 By Asakura

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もう300年もたってしまって、確かなことはわかりません。物証はなし、再調査もできず、文献は、これは「狼」の仕業だと言っています。現代の民俗学者も新聞記者も地方の歴史研究家もそれを信じて「オオカミが人を襲った」と断言しています。

しかし、その事件の動物の行動は現代のオオカミ研究で観察されている生身のオオカミの行動とはまったく異なります。違和感おおありです。

そこで真相はどこにある?という疑問を解くために、考えられるあらゆる状況証拠を集めてきました。

 

今までこの事件を書いた人たちは文献の文言どおりに解釈しています。

たとえば

 

千葉徳爾は諏訪藩御用部屋日記から元禄15年(1702年)の記録として、狼が十数人の女子どもを害したことを書いています。(茅野市史に引用されている記録は元禄10年になっていました。どちらが正しいのかは不明です)

藤森栄一は信州高島藩旧誌からの引用で同じ年の事件記録を探し出しました。その記録を書き記した文章に、「元禄155月から6月にいたる2ヶ月間、突発的に物凄い狼の跳梁があったのである」と書いています。この記録も含めて栗栖健は「日本人とオオカミ」の中で、『神から凶獣へ』というおどろおどろしいタイトルの章を設けたのです。

「絶滅した日本のオオカミ」を書いたブレット・ウォーカーは千葉の説を引用してそのまま使っていますし、平岩米吉も藤森栄一の掘り出した日記を使って、狼による事件の記録としています。

このいくつもの書籍は、同じ材料を繰り返し使って、日本ではオオカミが突然理由のわからない荒れ方で人を傷つけるというイメージを増幅、定着させてしまいました。

 

それ対して、当「オオカミと森の研究所(仮)」が到達した推理は、やっぱりこの事件の犯人は犬だろうなあ、ということです。

「当時オオカミはこの周辺に出没せず、犬が野山に多数生息する条件がそろっていた。この事件の犯人は山犬、つまり郊外に棲息する野犬だった」

という結論をだしました。

その推論過程をお話ししましょう。

 

 

○事件発生

この事件の時期を、西暦に換算してみましょう。(事件は元禄15年のものとします)

 

元禄15428日、最初の馬への襲撃があり、狼事件が始まります。

最初に人が襲われた日付は、元禄1559日。56月と十数人の少年少女が襲われ、死傷しました。6月に入り、次々にオオカミが打ち留められ、622日に最後の襲撃があり、同日別の場所で1頭のオオカミが打ち留められ、合計で8頭のオオカミを猟師が打ち留めて襲撃は終息しました。

 

元禄15428日 はグレゴリオ暦1702524日。事件が収束した元禄15622日は、グレゴリオ暦1702716日です。

 

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2018年4月18日 (水)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証7 犬の生活~「生類憐みの令」以前は食われ、試し斬りされていたのに、綱吉時代以後は?

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「諏訪高島藩で何が起きたか」再検証7 犬の生活~「生類憐みの令」以前は食われ、試し斬りされていたのに、綱吉時代以後は?

 

2018418

号外No.9

 By Asakura

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そろそろ「諏訪高島藩」の狼事件の再検証も結論に近づいてきたようですが、その前にもう一つ、当時の「犬の生活」について材料を集めておきたいと思います。

 

生類憐み政策は、犬が中心のように思われていますが、実際には馬も鳥も政策の対象になっていますし、綱吉は犬好きでもなく、飼育したという記録さえありません。ただ、綱吉時代の前後で、日本人の価値観が変わったのと同様、犬のポジションも大きく変わったようなのです。

狼事件に関わりのありそうな、当時の「犬の生活」をみていきましょう。

 

江戸時代初期、江戸の町の犬の数は、実数はわからないもののそれほど多くはありませんでした。

人が犬を食べていたこと、犬が鷹狩に使われる鷹の主要な餌になっていた影響で犬の繁殖にブレーキがかかっていたからです。

犬は人のいるところ、食べもののあるところに集まってくるので、人が集まり、食べものとねぐらが増えなければ犬の数も増えません。初期には江戸の人口も多くはありませんでした。

 

しかし、繁殖力は旺盛なので、人口が増えてくれば、犬の個体数も増えてきます。4代将軍家綱から5代将軍綱吉が登場するまでの時期は、全国的にみても都市での犬の増加が問題になり始めているようです。

岡山では延宝7年(1679年)に町方での犬飼いは禁止。犬が来たら追い払いなさい」広島では天和3年(1683年)「町々の野犬、殺すべし」とお触れが出ています。(「伊勢屋稲荷に犬の糞」)

 

 

●大名の飼い犬

 

将軍や大名は弓や銃による狩猟も行っていましたので、犬は狩猟目的で飼育され、大きく獰猛なものが特に好まれています。家康は1612年(慶長17年)の鹿狩りに備えて、56000人の弓鉄砲の者のほかに、670頭の大型猟犬を集めていました。

塚本によると、これらの獰猛な犬は、南蛮犬または唐犬と称されたグレイハウンド種であり、狩猟に使われるだけでなく、保有する大名の権威付けや競合相手に対して力を誇示するために利用されることにもなりました。

江戸の大名屋敷では一度に数百頭もの犬を抱え、飼育を担う中間たちが犬を引いて町中で庶民を脅かしている図も当時の屏風絵などに描かれています。

犬には生肉が与えられ、ますます獰猛になり、生まれてしまった不要な子犬は武家屋敷から塀の外に放り投げることで、手っ取り早く処分することが頻繁にあったようです。それが江戸の町の野良犬になりました。

(「犬将軍」)

国許でも、1761年(宝暦11年)末、信州上田藩の百姓一揆(上田騒動)の際に殿様秘蔵の唐犬4匹が山に放ったことがありました。一揆弾圧用に放したのではなく、領主の無用の出費などで唐犬の飼育が、百姓の怨みの的となっていたからでした。その後、しばらく山中で見かけられたということです。

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2018年4月14日 (土)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証6~生類憐みの令は何十万の人を苦しめた悪法だった?これもウソでした!

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【諏訪高島藩で何があったか】再検証6~生類憐みの令は何十万の人を苦しめた悪法だった?これもウソでした!

2018414

号外No.8

 By Asakura

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前回は、徳川綱吉の功績は「価値観の大転換」という結論でしたが、では、その政策の柱だった「生類憐みの令」は過酷な厳罰主義で人々の精神を強引に変えていった法令だったのでしょうか。

 

「人命より動物を優先させさえした」

「人々は過酷な環境に置かれていた」

と栗栖も村上も生類憐みの令が厳罰を伴ったということを前提にしています。

違反者をびしびしとしょっ引いて牢にぶちこんだり、首をはねたりした恐怖政治で、新井白石が「折りたく柴の記」に書いているように何十万もの人が苦しんだ悪政だったのでしょうか。

どうやら違うようです。具体的に見ていきましょう。

 

●何のために、いつ始まったのか

「生類憐みの令」を昭和になって最初に再評価した塚本学は、その開始時期について、こう書いています。

「生類憐み令なるものは、綱吉個人の恣意によって、あるとき突然に始まったというものではないから、始期を特定することはむずかしい」

諸国鉄砲改め、犬に関する愛護の令が1685年(貞享2年)、捨て子捨て牛馬の禁令が1687年(貞享4年)、塚本はこのあたりを一連の生類憐み政策の開始と考えています。

 

塚本は「この政策の意図したところは人間を含む一切の生類を幕府の庇護・管理下に置こうとするものであると同時に、諸国鉄砲改め令も生類憐み政策の一環であり、徳川政権による人民武装解除策という意味をもった」と、ちょっとおどろおどろしい陰謀論を展開していますが、これには山室恭子は批判的です。

陰謀論ではなく、正面から綱吉の政策を見たらまったく違う側面が姿を現したというのです。

 

 

●憐み政策の構成

「生類憐み政策」の展開状況を、整理してみましょう。

 

塚本「生類をめぐる政治」では、上記のように、鉄砲改めを「生類憐み政策」に加えています。山室が「黄門様と犬公方」で塚本の説を整理していますので、それを拝借します。

 

**************

塚本氏は生類憐みの令を「将軍個人の嗜好の問題ではなく、当時代の社会状況への一つの対策」として読み解こうとされ、発令者側の意図として、以下の諸点を挙げられた。

・鉄砲の抑制―当時、農作物を荒らす害獣を追い払うため、村々にはかなり多数の鉄砲が存在した。幕府は生類憐みを機に、鉄砲の使用を登録制にして統制しようとした。すなわち「生類憐み政策」は徳川政権による人民武装解除策という意味をもった。

・カブキモノの取り締まり――当時、都市では犬を食らうという習俗が、カブキモノすなわち無頼な連中のあいだに行われていた。幕府はそれを取り締まるために、犬の保護をうたった。

・野犬公害への対策—―当時、江戸の町に多数の犬が横行し、町民の生活にトラブルを発生させていた。そこで中野に犬の収容所をつくって対処した。

・宿場の馬の確保――当時、交通網の基礎をなす宿駅制度に必要な馬は、農民の飼育にゆだねられていた。幕府は馬の保護を命ずることで、この制度を維持しようとした。

**************

 

塚本のこの観方は、政権にとっての危機管理の意図という観点で貫かれています。

これに対して、根崎光男(「生類憐みの世界」)は、塚本の鉄砲管理が武装解除とする見方、大名に対する統制になったという考え方には概ね同意しているようですが、山室は法令の隠された意図を探ろうとすること自体に違和感を感じると述べています。

「綱吉は痛くもない腹を探られているのではないか」というのです。

 

 

※「生類憐みの世界」根崎光男 同成社江戸時代史叢書 2006

 

 

生類憐みの内容、構成としては対象動物から見ると犬、馬、鳥があり、捨て子病人の保護、囚人の健康状態への配慮など広範囲にわたり、ボダルト=ベイリーは、世界で始めての福祉政策だとまで語っています。

どちらの見方が正しいのでしょうか。私は、読み比べてみて、山室説に軍配を上げました。その山室説をご紹介します。

 

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2018年4月12日 (木)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証5~徳川綱吉時代生類憐みの令は史上最大の悪政というのはホント?ウソでした!

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【号外】「諏訪高島藩で何がおきたか」再検証5~徳川綱吉時代生類憐みの令は史上最大の悪政というのはホント?ウソでした!

2018412

号外No.7

 By Asakura

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江戸時代の狼襲撃事件の背景として、「徳川綱吉」と「生類憐みの令」は避けて通れません。

ちょうど綱吉の治世、元禄時代を中心に大きな狼事件が起きていて、確かに関係があると思われることもありますし、歴史研究者や著者が狼事件との関連に言及しているからです。

 

たとえば、栗栖健は「日本人とオオカミ」の中で

「いわゆる『生類憐みの令』は、綱吉の迷信によって、人命より動物を優先させさえした。『徳川実記』に出ている令の内容と「実記」にある他の時代の記録から、皮肉にも17世紀末ごろ幕府が記録しなければならないほどの狼害が発生していたことがわかる」

と書いていますし、村上一馬も「東北学062015)」に収録された論考で

「飛びかかってきた狼をたたき殺しても半年間の村預けにされている。・・・元禄から宝永年間は徳川綱吉による『生類憐みの令』が断行され、・・・たとえ人や馬を害する狼であっても、丁寧に扱うよう指示されていた」「人々は過酷な環境に置かれていた」と事件の背景を推測しています。

 

 

●従来の徳川綱吉の評価

このような見方は従来の徳川綱吉の評価「綱吉は暗君」、「生類憐みの令」は悪法という定説を踏襲したものです。

今まで、「生類憐みの令」と徳川綱吉は、

「史上最大の悪政の一つ」

「世界の封建制史上でも最大の悪法」

「犬を守るために人間を殺した支配者」「迷信を信じやすい支配者が狂ったように犬を溺愛した」

あるいは「精神異常をきたした結果」とまで言われ、綱吉といえば別名「犬公方」と呼ばれているように、「人間よりも犬を大切にした最低の将軍」という評価は、中学高校の歴史教科書にさえ反映していますから、誰もが知っている定説ということになります。栗栖健も村上一馬もこの説をまったく疑っていないようです。

 

 

●新しい綱吉像

しかし、「生類憐みの令」に関する研究を調べてみると、その事実関係はそう単純ではなく、その歴史的評価は見直しが積極的に進められ、新しい見解が提示されつつあります。

 

たとえば、

※「生類憐みの政治 元禄のフォークロア」塚本学 平凡社 1993年(原著1983年)

※「黄門さまと犬公方」山室恭子 文芸春秋文春新書 1998

※「逆説の日本史13近世展開編」井沢元彦 小学館 2006

※「犬将軍 綱吉は名君か暴君か」ベアトリス・Mボダルト=ベイリー著 早川朝子訳 2015

 

などは、「生類憐み政策」を見直し、綱吉の意図を読み解いています。人物評価についても塚本を除いては評価を逆転させています。

 

塚本は、1983年に書いた「生類憐みの政治」で、「生類憐み政策」の意図を分析し、当時の社会状況への対策だったと言って、学会で初めて、「政策」として検討しました。しかし、綱吉本人の人物像については「政治家としての資質には低い評価を与えねばなるまい」「日本社会の文明化を推進した理想主義者ではあるが小心者の専制君主というのが、私の綱吉像である」と手厳しい評価を下しています。(「徳川綱吉」塚本学著)

その点を井沢は、まだ旧来の常識にとらわれた見方だと批判的に書いています。

 

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2018年3月28日 (水)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証4 農業事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

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【号外】【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証4 農業事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

 

2018328

号外No.6

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江戸時代に入って人口が増加し始めると、並行して食糧増産のため、耕地を拡大させる新田開発の政策が実行されるようになりました。

 

 

●耕地開拓

 

新田開発は、江戸時代には3回のブームがありました。

163070年代(寛永~寛文)、17世紀末元禄から1740年代(延享)、寛政から安政にかけての3回です。

それによって耕地は拡大していきます。太閤検地から推定される1600年の耕地面積は220万町歩(ha)でしたが、1721年(享保6年)に幕府調査による全国の耕地面積は、推定296万町歩に増加しています。

高島藩では増えた新田村の大半が163070年代(寛永~寛文)にできたものでした

 

 

 高島藩の新田開発

 

諏訪頼水(16011640)は数年間の無年貢、諸役の永年免除、集落周囲の草地占有などの免許、定書を出して新田開発を進めました。(草地と日本人)

明治になったときの諏訪郡の村は、約150ヶ村でしたが、そのうち60ヶ村がこの時期の新田村です。「茅野市史」には、延宝(1673年~)から天和(1681年~)、貞享(1684年~)、元禄(1688年~)の間に石高の伸びが大きく、文化(1802年~)期までの150年間で2倍近く伸びたと書かれています。

 

 

 収穫量増加

 

耕地面積増加に加えて実収石高の推計では江戸時代が始まる直前から元禄期までの増加率は55%と、17世紀には耕地の拡大を大きく上回る農業生産の拡大があったと推測されています。

 

 「文明としての江戸システム(日本の歴史 第19巻)」鬼頭宏 講談社 2002

 

 

人口増加を支えていたのは、収穫量の増加、つまり耕地面積の拡大と単位あたり収穫量の増加です。それは、村落の数や規模の増加と、集約化、意欲の向上、そして農業技術の向上が原因です。

農業技術イコール肥料の投入、地力の向上であり、その証拠にこのころ全国でいくつも書かれた農書は、肥料論が中心でした。(「草山の語る近世」)

 

 

 

●農法確立

 

当時の農業は、水田を中心に回っていました。水田には、山野で取得する草柴(これを刈敷と言います)が主要な肥料として投入されています。

江戸時代初期の農書に記された肥料論は、山野の草木葉の利用が中心で、草木葉の肥料としての適否の判定法が中心をなしているそうです。

 

草肥とはどのようなものかを、水本邦彦が著書「草山の語る近世」で宮崎安貞著「農業全書」(1697年元禄10年)の文章を現代語に訳しています。

「草肥とは、山野の若い柴や草(ほどろまたは刈敷)を肥料にしたものである。これを牛馬に敷かせたり、積み重ねて腐らせたり、またはそのまま田畑に多く施すと、とりわけ効果が大きい。草肥を入れた田畑の土は、軟らかくさらさらになって、いつまでも肥えているものである。草肥は柴や草の陽気が盛んな時に刈って作ったものだから、その陽気が五穀をはじめいろいろな作物の陽気を助け、作物がよく生育する」

 

各地で農民は農法を研究し、驚くほど多数の農書が流通し、新技術が全国に広まりました。収穫量を上げる決め手は肥料の使い方であり、この時代から明治まで、肥料の中心は草肥の時代が続きます。

 

江戸中期には、お金を出して手に入れるところから金肥と呼ばれた「干し鰯、油粕、大豆粕等」が普及し始めますが、金肥が多く使われたのは近畿、東海など限られた地域でした。

 

※「徳川の国家デザイン 全集日本の歴史10」水本邦彦著 小学館 2008

 

 

肥料に使用するための草地の面積は、耕作地1反(10アール)につきその10倍の1町歩(1ヘクタール)以上を要し、仮に戸数100戸、耕作面積50町歩(ヘクタール)の村を想定すると、500600町歩(ヘクタール)の草地を必要とします。

また耕作を手伝ってくれる牛馬の飼い葉も山野の草でしたので、これまた草地が必要となります。当時の資料から馬一頭につき2町歩(2ヘクタール)の面積の草地を必要とすることがわかります。(「草地と日本人」)

さらに農家一戸の薪炭使用量を計算すると、薪炭採取のための林も100戸の村なら125150町歩(ヘクタール)を使わなければ生活できませんでした。

 

こうしたことすべてが、森林を伐採し、その後の草地をとことん利用し、さらに広げることとなりました。

 

 

 

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2018年3月26日 (月)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証3 森林事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

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【号外】【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証3 森林事情 江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性

2018326

号外No.5

 By Asakura

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江戸幕府が開かれ、戦争の時代は終わったとはいえ、戦国時代の荒々しい気風、軍事優先の時代風潮は長く続いていました。

資源は森林だけの日本列島で、人口が増加すると何が起きるでしょう。

徳川家光の時代に鎖国政策に移行したため、また今のように資源を輸入に頼る時代でもないため、国際的な資源貿易もありません。

 

 

●建築ラッシュ

 

関ヶ原の戦が終わり、1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれると、江戸城の修築(慶長11年)を契機として、未曽有の建築ブームが起きました。駿府城、名古屋城をはじめ、大名が転封されることにより、全国各地で築城が相次ぎ、これにともなって武家屋敷・寺社・町家などの城下町建設、や交通路の整備など土木工事も盛んに行われましたし、大名は参勤交代が始まったことで江戸にも大規模な、華麗な屋敷を構えなければなりませんでした。

 

関ケ原以前から築城、城下町の整備は進んでいましたが、このブームで建築、土木用材としての木材の需要は膨れ上がりました。

諏訪高島城の築城は、日根野氏によって1590年代に行われました。その日根野氏は1601年(慶長6年)に転出し、戦国時代の領主だった諏訪氏が戻ってきます。

 

※「森林の江戸学 徳川の歴史再発見」徳川林政史研究所 東京堂出版 2012

※「日本人はどのように森をつくってきたのか」コンラッド・タットマン著 熊谷実訳 築地書館 1998

 

●火事・災害

 

江戸や地方都市が整備されて以降も木材需要は増え続けます。木造家屋が密集する都市が建設されたことで、庶民の家屋や商業地が繰り返し火災で焼かれていたからです。

また、自然災害も多い時期であり、水害、噴火、地震等、街を壊滅させるような大災害が相次いだ時代でもあります。

鬼頭宏は「環境先進国・江戸」でこう書いています。

「江戸時代は災害見本市のような時代だった。台風、高潮、洪水、干ばつ、落雷、降雹、大雪、季節異常といった気象災害、地震、津波、噴火などの地殻変動に伴う災害、疫病や農作物における病虫害のような生物学的災害など、記録のない年を探すのが難しいくらいに、毎年日本列島のどこかで発生していた」

 

なかでも地震は多く、江戸時代を通じて頻繁におきていました。江戸では特に前半の1628(寛永5年)~1649年(慶安2年)、1703年(元禄16年)の二つのピークで強い地震が発生し、大きな被害が起きています。そうした災害の復興にも木材は必需品でした。(「江戸の自然災害」)

 

有名な振袖火事と呼ばれる明暦大火は、1657年(明暦3年)江戸市中のほとんど、500の大名屋敷、779の旗本屋敷、350の寺社、町屋が密集する400のブロックを焼き、10万人の死者が出たといいます。また江戸城天守閣も焼失し、保科正之が天守閣の債権を断念し、江戸市中の復興を優先したというエピソードを生みましたが、それほど都市の再建にかかる木材が必要だったということでしょう。タットマンの著書では庶民の家の半分を再建するだけでも原生林2500ヘクタールの面積が必要だと試算しています。

 

一方大都市江戸の災害は、地方にとっての商売のチャンスです。

明暦大火の翌1658年(元治元年)に江戸の商人が、南部藩に2500両の運上金を支払って、下北半島のヒノキを伐り出した記録が残っているそうです。

(「村からみた日本史」)

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2018年3月24日 (土)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証2 人口増加 (江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性その3)

 

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【号外】江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性【諏訪高島藩で何が起きたか】その2 人口増加

 

2018324

号外No.4

 By Asakura

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諏訪高島藩で狼襲撃事件があったのはどのような時代だったのでしょうか、その時代背景、特に人口増加、森林や農業事情に注目していきます。

 

●人口増加

諏訪でオオカミ事件がおきた元禄15年(1702年)は、関ヶ原の戦いから約100年が経過し、徳川幕府も将軍が5代を数え、荒々しい雰囲気から安定の世の中に変わり、元禄は泰平の世と言われている時代でした。

 

その100年間の第一の特徴は、日本全体での人口増加です。

江戸幕府開府の1600年頃、1200万から1500万人と推定されている人口は、100年で2倍以上のペースで増え、1730年ごろピークに達しました。1700年には3100万人を超えたと推定されています。

人口増加は、産業、農業の発展を促し、経済成長が人口増の持続をもたらす好循環が続いていました。

 

※「歴史の中の江戸時代」速水 融編 藤原書店  2011

※「人口で見る日本史」鬼頭宏著 PHP研究所 2007

 

 

●高島藩の人口増加

全国的な人口増加は上記のように1730年ごろをピークに、横ばいになり、明治維新のころは3600万人と推定されています。

では、一地方の藩、高島藩の人口はどうだったのか、知る手段はあるでしょうか。

実は偶然というか幸運なことに、高島藩の人口推計、変遷は、江戸時代を通じてかなり正確にわかっています。

歴史人口学という分野の日本における草分けである速水融(はやみあきら)元慶応大学名誉教授が、日本で最初に取り組んだのが高島藩の事例でした。

歴史人口学とは、徳川幕府が、民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査した「宗門改帳」(現在で言う戸籍原簿や租税台帳にあたる)をもとに生誕・死亡や結婚などを調べていく方法で、江戸時代の人口動態から経済を読み解く経済学の一分野です。

 

高島藩領は、現在の諏訪市、茅野市、富士見町、岡谷市にほぼ相当する地域ですが、宗門改帳が各村に相当残っていたため、詳細に研究することができました。

 

 

※「近世農村の歴史人口学的研究―信州諏訪地方の宗門改帳分析―」速水融著 東洋経済新報社 1973

 

 

残っていたのは、宗門改帳が使われはじめた1670年ころから明治維新までの約200年間で、明治維新の時点での高島藩150の村のうち、残存率が3分の1程度ですから、全体の人口については速水融の推定になります。

 

速水融による推定人口は、

1600年  16,00020,000

1670年  32,00033,000

1870年  55,000

となり、初期の人口増加のピークは1730年ごろとされています。狼事件の起きた1700年前後はまだ増え続けている時期でした。

 

●諏訪の古村と新田村

 

諏訪は、江戸時代以前日根野氏が支配していましたが、日根野氏は1601年(慶長6年)に転出し、古くからの領主だった諏訪氏が戻ってきます。

諏訪氏が戻ってきて初代の藩主頼水は、荒地の回復と新田の開発を藩政の重点の一つとしています。荒地の回復のためには、百姓の土地の安堵と逃散人の召し返しを行って、農民が安心して暮らせるようにし、租税の減免など優遇措置によって新田開発を奨励しました。

諏訪では慶長年間以後開発された村を「新田」、それ以前からの村を「古村」と呼んでいます。

1621年(元和7年)に最初の新田村が、1670年くらいまでの50年間に大部分の新田が成立しました。藩領全部を合わせて、60以上、そのうち茅野市域では元禄以前に約40の新田が成立しています。

新田は、新たに道と水路を整備された地域に、古村から独立する形で増えていきました。現代でいえばニュータウンを造成して、町が増えていくようなものです。

 

※「諏訪市史 中巻 近世」 諏訪市 昭和63

※「茅野市史 中巻 中世近世」 茅野市 昭和62

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2018年3月21日 (水)

【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証1~江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性 その3~

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江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性 その3~【諏訪高島藩で何が起きたか】再検証1

2018321

号外No.3

 By Asakura

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江戸時代におきた狼事件で、今まで取り上げられてきた最大の事件が、元禄時代に記録されている諏訪高島藩の事件、現在の長野県茅野市、諏訪市でおきた事件だと思います。しかし、それがオオカミによる事件であるのかどうか、私は疑問に思い、5年ほど前に「森とシカtoオオカミ2」ブログで以下のような記事をアップしました。

 

諏訪高島藩で何が起きたか①~日本のオオカミ襲撃事件簿

http://nikkokekko.cocolog-nifty.com/wolf/2013/02/post-ff2e.html

 

諏訪高島藩で何が起きたか②~時代背景

http://nikkokekko.cocolog-nifty.com/wolf/2013/03/post-c09c.html

 

諏訪高島藩で何が起きたか③~諏訪高島藩の状況

http://nikkokekko.cocolog-nifty.com/wolf/2013/03/post-e350.html

 

諏訪高島藩で何が起きたか④~オオカミ襲撃事件の真相は?


http://nikkokekko.cocolog-nifty.com/wolf/2013/03/post-cb4f.html

5年たった今でもこの検証の方向は正しいと思っています。前にはまだはっきりわからなかったことが、その後も調べていくうちにはっきり見えて来たこともあり、改めてきちんとこの事件を検証してみたいと思います。

 

 

時代背景、生類憐みの令、諏訪高島藩の状況、農業・農村・森林の状況、事件現場の状況など、順を追ってオオカミの習性を交えて、何回かに分けて書いていきます。まず、事件の記録について整理してみます。ブログに書いたことの再録です。

 

●諏訪高島藩の事件

 

諏訪藩御用部屋日記(あるいは信州高島藩旧誌)にある元禄15年の事件です。被害の記録を取り上げているのは下記の3人の本です。

千葉徳爾著「オオカミはなぜ消えたか」 

栗栖健著「日本人とオオカミ」

平岩米吉著「狼―その生態と歴史」

 

「日本人とオオカミ」栗栖健著は、長野県の郷土史家藤森栄一氏が掘り出した記録、信州高島藩旧誌(「古道」)をまるごと引用しています。藤森氏はその日記の筆者は高山善右衛門と久保島善左衛門が書いた手記としています。

 

藤森氏の「古道」から引用します。 

「元禄15年(1702年)「信州高島藩旧誌」のうち、高山善右衛門と久保島善左衛門が書いた5月、6月の手記に、狼の大被害のことがみえている。

 

511日、これが初見で、狼がまた北大塩村、塩沢村に出柄人馬を害したので、目付吉田仁右衛門に手勢をつけて鉄砲を差し許した、ということを書いている。その中の「また」は、どうもふたたびというニュアンスがある。つまり、このころになって狼が近郊に出没するようになったと考えていいようである。ところが、6月になると、いよいよひどいことになる。

3日 晴 渡世鉄砲中村の吉左衛門、南大塩村観音林にて、狼二匹打ち留めにつき褒美2

4日 雨 福沢村庄助、小屋場にて、狼一匹打ち留め褒美1

同日 塚原村庄五郎同判右衛門、横内村にて狼1匹打ち留め褒美1

9日 中金子村庄屋利右衛門方8歳女児喰い殺さる。群をなしての襲来にて、施さんにも術なし。
 

そうした被害は、現茅野市の八ヶ岳西麓の村々、山村から平野の村、さては街中の横内、矢ケ崎、塚原、上原いまの諏訪市街の真ん中小和田にまで及んで、16件、16人の男女、男子は1017歳、女子は1024歳までが喰い殺されている。被害の総数は入っていない。そして次の悲惨な記事で、この狼事件はぷつんと切れたまま、長い江戸時代を通して、もう顕著には出てこない。 

22日 新井新田彦左衛門一人息子12歳が、昼庭に遊んでいると、狼が飛来して噛み付き、昼間故、家中総出で、棒や鋤をもって格闘するや、狼は倅をくわえ山林に遁走した。家人はあまりの悲惨さに首をつってあい果てた。

 

この記録は名にを意味するのだろう。元禄15年の5月から6月に至る約2ヵ月、突発的に物凄い狼の跳梁があったのである。」

 

そして藤森氏の筆は、加賀藩の狼事件の記録に移っていきます。

 

同じ元禄15年(1702年)の事件を「オオカミはなぜ消えたか」(千葉徳爾著)は「諏訪藩御用部屋日記」を出典として次のように書いています。

 

428日 

一、山浦筋殊の外狼荒人馬を損じ候に付き、渡世鉄砲之者に申しつけ、御扶持くだされ、打たせ申す筈、但し、一人黒米1日に9合くだされ候。勿論狼打ち留め候へば、壱つにつきご褒美金1両ずつ下され候云々

 

6月12

埴原田村渡世鉄砲五郎作、西山田村彦兵衛、狼壱つずつ打ち留め候段云々

同日 渡世鉄砲中村吉衛門と申す者、南大塩村観音堂林のうちにて狼二つ打ち留め候につき云々

622

乙事村渡世鉄砲善右衛門と申し候者狼壱つ打ち留め候

一、去る5月より当月(7月)15日迄狼喰候者左に記す。

518日、塩沢村甚兵衛男子15歳喰殺候

59日、北大塩村市左衛門女子12歳、喰候得共疵少故押付直る。

同 両角六郎兵衛召使下女14歳喰殺候

511日、土橋佐五衛門召使下女15歳喰殺候 是は両角太郎兵衛の譜代兵四郎子の由

同日 北大塩村七郎兵衛の女子13歳 半死半生死生不知

64日 上桑原村伝八郎下女16歳 喰られ共疵軽き由

7日 糸萱新田七左衛門倅12歳 喰殺候由

同日 芹ケ沢村八右衛門女子13歳 昼時喰殺候由

65日 南大塩村孫左衛門下女24歳 喰れ候疵三ヶ所に候え共重くは無之候

合計9人のうち死者5人、危篤1人、軽傷3

(引用終了)

 

記述に若干食い違いがありますが、同じ事件を二つの日記が書き記していますが、両者を付き合わせると、事件はおおよそ以下のように推移しています。

 

4月に馬への襲撃があり、56月と十数人の少年少女が襲われ、死傷した。

 

6月に入り、次々にオオカミが打ち留められた。

 

622日に最後の襲撃があり、同日別の場所で1頭のオオカミが打ち留められ、合計で8頭のオオカミを猟師が打ち留めて襲撃は終息した。

 

●事件現場

 

この記録には事件がおきた地点の村名が記載されています。たとえば南大塩村、北大塩村、塩沢村、桑原村などと書かれていますが、これは現在の茅野市の地名町名に残っています。たとえば平昌オリンピックのスピードスケート女子500メートルで金メダルを獲得した小平奈緒選手は茅野市出身です。その小平選手の地元に市民ら計700人以上が集まって声援を送ったと報じられたパブリックビューイング会場は南大塩公民館でした。

 

江戸時代の村名と茅野市諏訪市の町名は一致していますので、事件現場がどのあたりなのか、地図で特定することができます。

 

 

Photo_2

 

【諏訪高島藩の狼事件現場】

 

(赤い★マークが襲撃事件、黄色い矢印が駆除地点です)

 

諏訪湖の湖岸の平地の真ん中に高島城があり、高島藩の中心です。藩領は諏訪湖の北岸(左上)から、八ヶ岳の麓まで広がっています。現在の市町村名でいうと諏訪市、茅野市、富士見町にあたります。

諏訪湖(左上)から右下に向かって湿地が広がり、築城当時は湖水の上に浮かぶ浮き城と呼ばれていました。この湿地にも新田が開発され、現在はこの周辺もほぼ乾いて住宅地になっています。

中央に広がる盆地が現在の茅野市のエリアです。北にせりあがっていく霧ヶ峰、美ヶ原は約2000メートルの高原、東には八ヶ岳がそびえています。

千葉は、この地域での山林開発によってできた村落では、草刈り場の拡大によってその以前から棲息していた野獣が、安住の地を狭められ、元禄時代をピークとする入会地の草刈についての紛争のとばっちりを受けた狼が、生存、子育てを脅かされて防衛しようとして結果ではないか、と推測しています。

さて、千葉の推測は正しいでしょうか。

当時がどのような時代だったのか、事件現場が、どのような場所で、山野はどのような様子だったのか、野生動物は、オオカミはどこに生息していたか、住民は誰で、どのくらい住んで、何をしていたのかが、事件の全容解明に必要です。時代背景から探っていきます。

 

確かに千葉のいうように、子育て時期の反応と考えることもできるかもしれません。子育て時期は、前号で書いたように、まさに春から夏です。

 

しかし、どうでしょう。事件現場は高島藩の農村のど真ん中です。ここに巣穴があり、巣穴から離れられない時期にヒトの脅威から子どもを護る行動だったといえるでしょうか。

 

2018年3月14日 (水)

江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性 その2 加賀藩の狼事件~史料に記録された事件の犯人はオオカミだろうか

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【号外】江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性 その2 加賀藩の狼事件~加賀藩の史料に記録された事件の犯人はオオカミだろうか

 

万治元年(1668年)から嘉永2年(1849年)に記録された事件について

 

2018314

号外No.2


 
By Asakura


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号外のみ、ブログ「森とシカtoオオカミ」で公開します。

 

 

千葉と栗栖、平岩が取り上げている加賀藩の狼事件は、『加賀藩史料』に記録された200年分の行政資料のなかに記録されています。これは加賀、能登、越中の三か国の大半を藩領としていた前田家の文書史料を整理集録した記録集で、藩の地方制度が整った万治元年(1658年)から嘉永2年(1849年までの、政治的に安定した約200年間については、藩内各地のできごとも多く収録されています。

 

 

それを、3人が抜き出して取り上げているのですが、千葉「オオカミはなぜ消えたか」が特に詳しいので、そのなかから事件記録を引用することにします。

 

 

千葉徳爾は加賀藩資料に記録された約200年間の狼事件を50年ずつ4期に分けていますので、その時代区分ことに起きたできごとを整理しましょう。

 

 

※「オオカミはなぜ消えたか」千葉徳爾著 新人物往来社 1995

 

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●第一期1658年から1709年まで

 

 

・「寛文8年(1668年)、能登の羽咋郡の村々に狼が出て、幼少年11人が害にあった」

 

 

「この報告は藩庁に知られたのが約1ヶ月遅れた。藩主は怒って領民保護の責任者に知らせなかったとして、代官以下を厳しく処罰している」

 

 

・「延宝2年(1674年)、金沢の西にある野々市で、6月に子供が狼に傷つけられた」

 

 

・「元禄5年(1692年)2月、金沢市街に一匹の狼が入り込んで、市人の騒ぎ立てるのを見たひとりの武士が、槍をとって見事に突き止めた。人助けをしたこの武士は城下から追放の刑を受けている」

 

 

・「元禄6年(1693年)7月、小松の市街のすぐ川向うに草刈に出た少女が狼に噛み殺された。その届書には、この狼はただいまも皮の向こう岸に歩いております、と書かれている」

 

 

●第二期1710年から1757

 

この期間に事件は記録されていません。

 

 

●第三期1758年から1801

 

・「市街地金沢の近郊に著しく狼が出没して、人身事故が多発」

 

 

・「宝暦8年(1758年)に金沢の奥にある土清水村に現れた狼が、1214日に捕らわれた」

 

 

・「通例の狼にはこれなく、足ことのほか太く6寸(約20センチ)廻りあり候由云々」

 

 

・「宝暦13年(1763年)、犀川上流の谷間の村々を荒らした狼も、3人に負傷させている」

 

 

・「明和3年(1766年)7月、異常に多数の狼が捕獲されている。捕獲した数だけで67頭もあった」

 

(筆者注:石川県金沢市の西に市町名が残っています。野々市、村井、福富、高尾、押野、松任。野々市周辺10キロ四方くらいの地域)

 

 

・「捕獲地は、金沢西郊の松任から野々市に集中していた。その被害は、6月の御供田村で小児を殺傷することからはじまり、7月に蓮華寺村で14歳の男の子、17歳の女の子を共に喰い殺すことから多数の負傷者を生じて大事件に発展した。

 

射撃は効果が乏しく主として陥穽掘って捕殺する方法がとられ、狼狩猟隊4組、102人が出動している」

 

 

・「注記によれば従来の狼より大型のものと共に、「地犬より小さきもの」まで、混在していたとある。これについては豺(ヤマイヌ、あるいはノイヌ)の字があてられていた」

 

 

・「明和3年(1766年)金沢市街の南の郊外にあたる田上道の牛坂あたりの竹やぶの中に、狼が仔を育てており、雌雄2頭の仔犬が生れている。親狼は昼は姿を見せないが、毎夜やってきて乳を与えているのを見かける。しかも見る人間に害を及ぼすこともしない。近所の人々が食物を与え、また狼というので見物に行くものもあるが、人に馴れ親しみ、家犬と同様に人間を恐れることがない」

 

 

・「大犬の出現について世上の取沙汰も書き留めている。これらの野獣は狼であるという者もあるが、また豺(ヤマイヌ)と申す者もいる。極めて形の大きいものから、地犬より小さい成獣もある。来たのは越前方面から人に追われてやってきたとも、また南の方から山を越えて来たのだともいう。とにかく、5060頭も群れをなして移動し、犀川の近くをうろつくようになったのだと」

 

・「明和47月、石川郡の各所にどこからともなく出て、故柳村あるいは大平寺野など各所で人8名を害している」

 

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2018年3月 8日 (木)

江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性 その1~「鸚鵡籠中記」に記された尾張藩のオオカミ事件

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【号外】江戸時代のオオカミ咬傷記録の信憑性 その1~「鸚鵡籠中記」に記された尾張藩のオオカミ事件

 

201838

号外No.1

 By Asakura

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Photo_2

 

 

オオカミ再導入の話をすると、まだ多くの人たちが「オオカミは怖い」と言ったり、「オオカミは人を襲うでしょ」という反応をします。その根拠はと問うと、ちょっと考えて「赤ずきんちゃんとか」「三匹のこぶたとか」と西洋の童話を挙げることが多いのですが、稀に日本の江戸時代におきたと言われる事件を持ち出して「オオカミの人的被害の記録がある」という人もいます。

 

日本でオオカミに関心を向けていくと、多くの場合、絶滅したニホンオオカミについての古い記録への興味に移っていったり、固有種であるニホンオオカミがまだ生きて山中に暮らしているかもしれないというロマンになったりするのですが、その興味や関心をかきたてるのが、写真のようなニホンオオカミに関する書籍の類です。

 

平岩米吉「狼 その生態と歴史」

千葉徳爾「オオカミはなぜ消えたか」

栗栖健「日本人とオオカミ 世界でも特異なその関係と歴史」

村上一馬「江戸時代の狼 弘前藩、盛岡藩の藩日記から」(東北学)

 

 

 

この4冊のうち、「狼 その生態と歴史」(左端)を書いた平岩米吉18981986)という民間の動物学者は、実際に私財でモンゴルや朝鮮半島からオオカミを入手して飼育し、イヌとの比較のうえで性質や形態について詳細に記録もし、「オオカミ悪獣説」を否定しています。

 

一方ほかの著者による3冊は、ほぼ古い文献や伝承だけを手掛かりにしている本です。

千葉徳爾19162001)は愛知大学、筑波大学、明治大学の教授や、日本民俗学会代表理事を歴任した民俗学者、地理学者であり、人と動物の交渉史、山村文化などを研究していました。

栗栖健1947~)は毎日新聞記者として滋賀県北部、丹後、山陰、奈良県吉野地方などで勤務。この書籍が刊行された当時毎日新聞社奈良支局五條通信部長だったそうです。

村上 一馬は、宮城県立東北歴史博物館の民俗学上席主任研究員で、東北地方の鳥獣害と民衆の関係について特に関心をもって研究を続けている人です。東北地方の狼による人身被害についての論文も2本提出しています。

 

 

この書物に取り上げられている狼害と記録された大きな事件を伝える史料は、主に5つです。

 

1.諏訪高島藩 (高島藩の日記)

元禄15年(1702年)67

1616人の死傷

2.尾張藩 (「鸚鵡籠中記」尾張藩士朝日重章)

宝永6年(1709年)47

1824人の死傷

3.加賀藩 (加賀藩資料)

明和3年(1766年)7

子供多数負傷

4.弘前藩(弘前藩庁御国日記)

元禄2年(1689年)~安永7年(1778年)

89年間計84人の死傷者

5.盛岡藩(盛岡藩御用人所日記)

寛文2年(1662年)~文化10年(1813年)

151年間計89人の死傷者

 

3人の著者は、古い記録からオオカミによるとされる記述を丹念に探し出し、その事件経過を解釈することを本の主旨としていますが、彼らは、当時の役人である武士による日記類のためもあってか、それが狼による事件だということの信憑性にまったく疑いをもっていません。

ですが、文書で確認できる範囲で事件の詳細を読むと、疑問が湧いてくることも確かです。現実的に、オオカミにはこのようなことを実行する力があるのだろうか、と。

 

「オオカミ 神話から現実へ」(1998年 東宣出版)という本を書いたジェラール・メナトリーは、この本のなかでオオカミに関する古いフランスの伝承を記録し、その真偽について論じています。

メナトリーは、元新聞記者ですが、現在は「ジェヴォーダン・オオカミ公園」を経営し、現実に生身のオオカミを飼育し、その行動、能力についての豊富な知識を基に伝承のなかのオオカミの行動を判断しようとしています。現実から文書を読むまなざしをもっているのです。平岩と同じです。

だからメナトリーは伝説のモンスターオオカミには疑いの目を向け、人間の側の偏見について語っています。フランスで有名な人食いオオカミの伝説、「ジェヴォーダンのオオカミ」についてもきっぱりと否定しています。

「人間の肉を好むオオカミの存在を信じることがどうしてできるだろうか」とも述べています。

 

日本の古文書も、日付や場所、死傷者の人数などだけでなく、その動物の行動が記されていれば、生身の動物の行動、能力と照らし合わせて、その正体を探る手掛かりになるかもしれません。

しばらくメルマガの号外で、「番外編」として、江戸時代に起きたとされるオオカミによる人身被害の実態を探っていきたいと思います。

 

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